波田からロス五輪を射抜くため 絈野夏海が欲するのは“頂点”だけ

信州から羽ばたいた一人の女子バスケットボール選手が、世界を視野に日々を送っている。絈野(かせの)夏海。岐阜女子高時代はウインターカップで史上初の記録をマークし、2024年1月には当時高校生で唯一の日本代表候補に選ばれた。現在は東京医療保健大でプレーし、元日本代表HCの恩塚亨氏のもと力を蓄えている。その原点と深奥に迫った。

文:大枝 令

史上まれに見る激戦のインカレ
2年連続の「銀メダル」に悔しさ

歴史に残る激戦を、コートの外から見守るしかできなかった。

2024年12月8日、代々木競技場第二体育館。全日本大学選手権(インカレ)女子決勝の東京医療保健大-白鷗大は両者譲らず、実に4度目のオーバータイムに突入していた。

自身はスタートで出場した。16点を挙げていたものの、第4クオーター残り5分46秒のドライブで左足を負傷。その10分間で大量リードを吐き出してオーバータイムに持ち込まれ、もつれにもつれた末に力尽きた。

「最後に勝ち切れず、自分たちの力不足を感じた。あれだけ競ってしまうと悔しさがすごくあった」

©︎東京医療保健大

銀メダルを首から提げ、車いすを押されて表彰式を終える。その表情は硬いまま。そして金色のテープが舞う中で優勝カップを掲げる白鷗大の歓喜を、コートの脇から眺めていた。

「2年連続でカップ挙げを目の前で見させられた。なんでこんなに悔しい思いを味わわなければいけないのかな…というぐらい味わってしまった」

――そう。
絈野はその前年も、悔しさにまみれていた。

PROFILE
絈野 夏海(かせの・なつみ) 2005年5月20日生まれ、長野県東筑摩郡波田町(現松本市)出身。小学校1年生の時に姉の影響で波田ミニバス(現西部グリーンスパンキーズ)でバスケットボールを始めた。波田中2年時には北信越中学総体で3位、3年時の第1回ジュニアウィンターカップに出場した。岐阜女子高ではキャプテンを務めてウィンターカップ準優勝。2024年1月には高校生で唯一の日本代表候補に選ばれた。東京医療保健大では1年時からスタート。ドライブと3ポイントシュートを武器とするPG/SG/SF。172cm。

岐阜女子高3年で迎えた、集大成のウインターカップ。自身は8本の3ポイントシュートを含む31点をマークしたものの、59-63で京都精華学園高に惜敗した。

この大会を通じて27本の3ポイントシュートをメイク。第76回目だった歴史ある大会で、史上最多となる記録を樹立した。

それでも、優勝できなかった悔しさがまさる。

悔しさ、反骨心。
そして、やり抜く強靭さ――。

バスケットボール選手・絈野夏海を形作ってきた根幹には、こうした要素がある。

反骨心と継続力が練り上げた
ドライブと3Pシュートの武器

5歳上の姉の影響で、小学1年生から始めたバスケットボール。全国を目指すチームで、タフな指導を受けた。「めっちゃ怒られていた」と振り返る。

それでも折れず、むしろエネルギーに変えた。

「嫌になってはいたけど、逆に戦っていたような気もする。ここで辞めてしまったらコーチに負けたことになるし、自分に負けることにもなる」

現在は西部グリーンスパンキーズと名前を変えたそのクラブで、小澤公一ヘッドコーチ(HC)に小中の9年間師事した。口酸っぱく指導されていたのはドライブ。ひたすら磨き抜いて、それが最初の武器となった。

「ドライブを極めてもらった。今はドライブと3ポイントでやっているので、そのコーチがいたから今の自分がある」

その言葉どおり突出した武器となっている3ポイントシュートは、次のステップである岐阜女子高で見い出された。

中学2年生のウインターカップで見初めた岐阜女子。同郷で憧れの存在だった藤澤夢叶(山梨学院大)がいたことも大きく、自ら売り込みをかける。トライアウトで選ばれて入学を勝ち取った。

すると早速、転機が訪れた。

4月。朝練でのシュート練習が安江満夫HCの目に留まる。「お前は今日からシューターだ、という感じで言われた。そこから打ち込むようになった」。

疑問は生じなかった。続けよう、という確固たる意志があっただけ。歴代の先輩も取り組んだシューティングのメニューを、ほぼ毎日消化する。

200本入れる。ただし、球出しを受けたら即座に打つ。5カ所から各40本ずつ、これを15分以内に終わらせるルール。タフで集中力も求められる。

「肩が上がらなくなることも普通にあったし、そういう時はシュートフォームやタイミングの悪さを指摘された。それでも続けていくうちに慣れた」

©︎東京医療保健大

そうした蓄積が基になり、いつしか高精度の3ポイントも代名詞となる。

それが大躍進にもつながった。1年最初の東海高校総体で頭がフリーズするほど舞い上がった桜花学園(愛知)戦。時を経て2年半後、3年時のウインターカップ準々決勝で当たる。

「キャプテンで周りを引っ張っていかなければいけない立場だった。技術面でも成長していると思うので、自信を持ってコートに立てた」

実にチーム全体の60.7%に上る37得点。3ポイントは9本(決定率64.3%)という八面六臂の活躍を見せ、61-60の大逆転勝利を牽引した。

日本代表合宿で無上の刺激
故郷からの応援も力に変える

ここから大きく、人生の歯車が動く。

2024年1月、パリ五輪の世界最終予選を戦う日本代表の候補に選ばれる。高校生では唯一。目標とする林咲希(富士通レッドウェーブ)とも交流を持ち、「周りにエネルギーを与えるような方だし、練習前の準備も人一倍しっかりされている」と無上の刺激を受けた。

それと前後して、当時日本代表を率いていた恩塚亨HCからも新たな視座を提示されていた。東京医療保健大の練習見学に行った際のことだった。

「オリンピックを目指してもいい。それぐらいの人材だ――というような話をされた。自分としては正直、思ってもいないようなことだった」

負けん気と反骨心、そして継続する力。それらを原動力にして突出したスキルを備えた。さらにこの言葉と日本代表での活動を経て、野心にも火がついた。

©︎東京医療保健大

課題だったフィジカルを鍛えたほか、周囲に好影響を与えるような振る舞いも意識的に実践。2回目の代表合宿ではコンタクトプレーに手応えを得た。「前よりはすぐ吹っ飛ばなくなった実感はあったし、プレーに馴染めるようにもなった」とうなずく。

そして今は、オリンピックへの思いを堂々と口にする。

「次のロサンゼルスオリンピックには絶対に出たいし、それまでのアジアカップとかでもしっかり結果を残したい。それに向けて今はしっかり準備をしていく必要がある。この4年間は、足りない部分を補う大切な時期だと思う」

©︎東京医療保健大

松本市西部の旧波田町で生まれ育ち、今や日本女子のホープでもある19歳。目標に向かって日々成長を期す土台には、郷土の支えもある。

「地元の方々は本当に温かい。応援してくださる方々がいて自分がいるので、そういう方々に恩返しができるようにこれからも頑張っていきたい」

目前で栄冠を逃す悔しさは、もう要らない。
愚直に突き詰めた日々の中から、光の射す場所へ歩みを進める。



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