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選手ストーリー

信州ブリリアントアリーズ

舛田 紗淑

右手から繰り出される力強いスパイクとは裏腹に、冷静で落ち着いた状況判断。チーム最年長タイの舛田紗淑が思い描くのは、どんな時も「チームの勝利」。膝の大けがを乗り越えた。所属チームの解散からも立ち直った。冷静さと情熱を両手に携え、信州の地でリーグ連覇への道を踏み出した。

文:原田 寛子/編集:大枝 令

苦悩の手術宣告から復活へ
道の先には信州Ariesの扉

――バチン!

スパイクの着地と同時に、左足から聞いたことのない音がした。

体育館に流れる一瞬の静寂。そして尋常ではない痛みが襲う。

「試合中に立てなくなった経験はなかった」

2021年10月30日。当時KUROBEアクアフェアリーズのキャプテンを務めていたアウトサイドヒッター舛田紗淑はコートに倒れ込んだ。

開幕から5戦目の対JTマーヴェラス戦。接戦で1セット目を取り、2セット目序盤の出来事だった。

アウェー戦だったため救急で病院に行くが、その日は土曜日。MRIは撮れず、医師からは「骨の異常はない。内側側副靭帯損傷じゃないか」と言われた。

――そうだったらいい。

経験のない痛みと不安に押しつぶされそうになりながら、翌日は車椅子の上から会場のチームメイトを応援した。

黒部に戻り、すぐにチームドクターの診察を受ける。左膝前十字靭帯断裂。加えて外側半月板損傷という診断が下された。

シーズン開幕前、当時の丸山貴也監督と話し合ったことを思い出す。監督はキャプテンに舛田を指名した。

「キャプテンは無理だ」と首を振り続けた。

それでも監督はあきらめなかった。

やがて舛田の心には、小さな灯がともる。

「結局は私が折れた。やるからには負け続けたり、降格するなんてことには絶対にしないという覚悟を持ってキャプテンを引き受けた」

さらに体の仕上がりや状態も良く、いいイメージを持てている自覚もあった。そんなタイミングでの手術宣告。

――心も折れる音がした。

それでも手術は待ってくれない。復帰が先延ばしにならないようチームは迅速に動き「気が付けば手術は終わっていた、というほどあっという間の期間だった」と舛田は振り返る。

折れた心に追い打ちをかけるように、手術後に待っていたのは厳しいリハビリだ。口をつくのは弱音ばかり。

「体にメスを入れれば、復帰後に自分が思うプレーができないギャップが生まれて落ち込む。復調できないまま終わる未来が見えるから、大きな手術をしたら引退すると決めていた」

苦しい入院生活の中で“引退”の2文字が心をかすめた。

それでも日々のリハビリは続く。

舛田と同じケガで入院する子どもたちを、何人も目にした。サッカーや柔道、スキーなどで前十字靭帯断裂をした中高生。自分よりも若く多くの選択肢がある未来の選手たちが、そこで岐路に立たされている。

泣きながらケガと向き合う子どもたちの姿は、少しずつ舛田の心を動かした。

「ケガで競技をやめることが弱いとは全く思わない。それも選択肢の一つ。自分は有名選手ではないけれど、表に立ってスポーツをする人間」

「同じケガをした選手が復帰する姿は、その子たちの明るい選択肢の一つになるかもしれない。そう考えた時、頑張ろうと思えた」

過酷なリハビリを乗り越え、心の針は“引退”から“再挑戦”へと振れた。

しかし不運にも指導体制の変更や監督退任が重なり、体制が大きく変わった時期。舛田もチームには戻れなかった。

「一度地元に帰ろう」

プレーヤー復帰の思いは消さぬまま、北海道の実家に帰郷。何かのあてがあって帰ったわけではない。仕事もせず実家で過ごす日々を送った。

そんな時声がかかったのは、小学生時代に所属していたクラブチームのTRYis八丁平(トライズはっちょうだいら)だ。在籍当時の指導者が1人残っていて「チームを手伝ってほしい」という話だった。

「練習している学校も近いし、暇だし手伝おう」

軽い気持ちで始めた指導に、ことのほか熱が入った。

「自分が受けていた頃の指導と同じような厳しい言葉遣いややり方はできない。かといって適当に指導するのは違う。生半可な気持ちではできなかった」

どうやったら伝わるか、どう言ったらわかりやすいか。試行錯誤しながら小学生と向き合った。時には試合にも帯同し、日々の成長を目の当たりにする。

「前の試合でできなかったことが、今回の試合ではできるようになっている。素直に頑張る子どもたちに教えるのは楽しかったし、成長した姿には感動した」

そして同時に、復帰への思いも湧き上がる。

リハビリは終了し、プレーの許可は出ていた。どこにも所属がない状況だが、年齢的にも現役を続けられる。幸いKUROBEの退団リリース後しばらくすると、声をかけてくるチームもあった。が、なかなか条件が折り合わない。

そんな中で「練習に来てみないか」と声がかかったのが、信州Aries。(当時ルートインホテルズブリリアントアリーズ)だった。対戦相手としてレベルの高いプレーをすることも知っていた。

「実際練習に行ってみたら、大学生との練習試合だった。約2年はリハビリと小学生の指導しかしていなかったから、筋肉も体力もない状態。当時の原秀治監督に『1セット出て』と言われて出たが、体も目も追いつかなかった。とんでもないと思った」

当時を振り返る舛田の顔には笑顔が浮かぶ。それは舛田と信州Ariesが入団について話し合う中で、ケガへの理解と体づくりの時間の確保を承諾したというチームとの信頼があるからだろうか。

こうして2023年V2リーグ女子開幕前、舛田は信州Ariesの背番号9を背負うことになった。

揺れるチーム事情に葛藤
守備力を武器に新たな道へ

今はコートで躍動する舛田だが、メンタル面でも超えてきた山はあった。

高卒で実業団チームの道を選んだ舛田は、2016年に仙台ベルフィーユに入団。当時チームを率いたのは、全日本女子の代表監督も務めた葛和伸元氏だった。

「後ろにも目がついているんじゃ?と思うほど視野が広い監督。練習も高校よりずっとハードで厳しかった。裏表がなく、人間性を重視する監督だった。あれだけチームがまとまっていたのは、葛和さんだからという部分もあったと思う」

練習中に選手と監督が衝突するのは日常茶飯事だった。でもそれは、全員が真摯に向き合っているからこそのこと。それを肌で感じ取るから、チームの雰囲気は悪くない。良好な人間関係が、日々の練習を続ける支えとなった。

練習成果が認められ、仙台在籍中にU23の代表選手に選ばれていた。合宿の参加も経験し、国を代表して戦うチャンスが目の前に現れた。海外遠征のためのパスポート取得も促される。合宿では手ごたえを感じ、本気で取り組む意思が固まった。

「あの環境でしか学べないことがたくさんあった。先輩たちとのつながりにも感謝している。内容の濃い1年だった」

――1年。

新卒で入団したチームに、舛田は1年しか在籍していない。1シーズンを終えたころ、チームは不穏な空気に包まれていた。

日々の練習とは別に、チームの運営が思わしくないという話を小耳に挟む。かといって詳細の説明を受けるわけでもない。誰もが目指しているのは当然チームの存続。自分たちは試合に勝つために練習を続けるしかない。

自身の中では「まずはこの環境で4年頑張る」という考えがあった。「4年」という区切りは大学進学したとすると続けているはずの期間だ。ひたむきにバレーと向き合っていた。

しかしチームの風向きは改善に転じない。2017年6月にVリーグ機構から退社勧告を受けたチームは、リーグ脱退と解散を余儀なくされた。

そこへさらなる追い打ちが襲う。U23カテゴリー代表の話が立ち消えに。自分の力が及ばぬ領域で、知らぬ間に代表への道が断たれていた。

そしてKUROBEへの移籍が決まった。
納得できるものは何一つなかった。

「今でも『あの時代表に行かれていたら』と悔しく思うときがある」と険しい表情を見せる。

移籍先は決まったが、明るい日々のスタートとはならなかった。好きなはずのバレーが楽しくない。自分の中の「4年間は続ける」という決め事を守るだけ。

「チームには申し訳なかった」

「あの時は状況も環境も受け入れられなかった。それでも在籍させてもらえていたから、ここで頑張ろうというタイミングが来た」

2018-19シーズン限りで主力6人が退部。国内外から選手を補強し、メンバーが大きく動いた。高校時代の同級生、道下ひなの(現・群馬グリーンウィングス)も入団。舛田のバレー魂に灯がともり始めた。

それも束の間。自分では手ごたえを感じながらも、定位置をつかめない日々が続いた。頭を抱えているとき、何気ない母親との会話に思いがけないきっかけがあった。

「直接監督に『なんで試合に出られないのか』って聞いてみればいいじゃない」

自分の中には全くない発想だった。

「確かにそうだ、と思ってそのまま『なんで試合に出られないんだ』と聞いた。返ってきたのは『攻撃力が足りないから』という答えだった」

その通りだった。他チームからの移籍選手も外国籍選手も、攻撃力を強みとしている人ばかり。その中でずば抜けた身長もずば抜けた攻撃力もない自分が選ばれるわけない。

――では、どうすべきか。
答えはおのずと導き出された。

「そこで初めて守備を磨いた。自分は試合に出ることが第一だと思う。そのためにはコートで必要な選手にならなければいけない。自分が守備を磨いて攻撃メインの選手にレセプションをさせなければ、攻撃に専念できる。上のレベルで戦うにはそれしかないと思った」

一念発起した舛田は、ひたすらサーブレシーブの練習に時間をかけた。目立たなくていい。攻撃中心じゃなくていい。ただチームの役に立つため。守備範囲を広げ、ボールを上げることを考えた。

自分で決めたことは必ずやり切る。舛田の努力は実を結び、徐々にレギュラーに定着。そして、2021年6月。監督の熱意に押し切られる形でキャプテンに就任した。

「頭を使う」習慣の源流は
公立中での自主的な行動から

信州Ariesでの試合後インタビューの際、舛田は「状況を見て頭を使う」「自分の役割を考える」という話をする場面が多い。コートの内外問わず、自分の状況を判断し他の人が動きやすいためにはどうすればいいか。対戦相手に対しても冷静に判断する。

こういった考えの土台はかなり早い段階で固められていた。

バレーを始めたのは小学3年生。友達に誘われて、地元・北海道室蘭市のTRYis 八丁平に入ったことがきっかけだ。バレー自体を楽しんではいたが、特にこだわっていたわけではない。「中学ではバドミントンをやってもいいかも」と思ったこともあった。

思いがけずバレーの道が開けたのは、中学進学の時に受けたスカウトだった。

札幌大谷中学校。全国的な強豪からの一報に、舛田家は衝撃を受けた。

バレーボール選手を目指してクラブチームに入ったわけではない。しかも室蘭市から札幌市は距離にして約130km。通える距離ではなく、中学生で一人暮らしはできない。となれば、両親どちらかが一緒に札幌で生活するという選択肢一択。

「そんな理由ではなく、単純に友達と離れるのが嫌だった。でも中学でバレーを続けようと思い、地元の公立中に進学した。この判断が結局『間違いじゃなかった』と思っている」

当時の顧問だった先生はバレー未経験者ながらも勉強熱心で、厳しく指導していた。舛田が3年生になるタイミングで、中学校合併となって顧問は退任。新任の顧問はバレーに関しての知識が少なかった。

キャプテンを務めていた舛田は、中学生ながらに「勝つためにはどうしたらいいか」「練習のメニューはどうしたらいいか」を必死に考え、試行錯誤した。

「外部のコーチが来てくれたから何とかなったけれど、自分で考えて行動することが身についた時だと思う。今思い返せば、これがベースになっている。いい経験になった」

強豪校に通い、経験豊富な指導者から教わって強くなるのは当然の選択肢。環境ではなく自分で考えて進むのも選択肢。舛田にとっていい環境だったのは、後者だった。

「JOCにも選ばれて合宿参加もしているが、確か2回戦敗退かな?というくらいの記憶。中学で考えながらプレーしていた部活経験のほうが思い出としては残っている」と笑う。

座右の銘は「弱気は最大の敵」。これは32歳でこの世を去った元広島カープの右腕・津田恒実氏の座右の銘だった。今でも広島カープの本拠地マツダスタジアムには、「炎のストッパー」と呼ばれた津田氏のこの言葉のプレートが飾られている。

「感情表現や演じるのは苦手。精神論もあまり好きではないけれど、この言葉は『確かにそうだ』と思ってドリンクホルダーの見えるところに貼ったこともある」

中学時代に培った“自分で考え動く力”は、今も冷静な状況判断として舛田のプレーを支えている。

幾多の試練を乗り越えて
見据えるのは「完全優勝」

信州Ariesで3シーズン目を迎える舛田は、チームの中でも最年長の一人。「冷静に役割を考え、適切な声掛けができる選手」でいることを考えている。

加えて自分の役目は「流れが悪い時の1本を決める」こと。苦しい場面で舛田にトスが上がることは少なくない。その時しっかりと点を取れる選手でいたいという。

「チームの雰囲気的にも、こういった考えを話しやすいのが信州Ariesの特徴でもある」

移籍してきた時感じたのは、「ただ仲がいいだけのチームではない」ということだった。年齢の上下関係なく、分け隔てなく話すことができる。それでいてギスギスしていない。

選手の入れ替わりがあっても、チームの雰囲気が変わらないことが大きな強みになっている。

「ただの『仲良しこよし』では、強くなるのは難しい。馴れ合うことなく勝つことにはどん欲に突き進む。コート内での一体感も強く、集中力が発揮されたときの力は大きい。プレーオフの最終セットはまさにそれだった」

今シーズンのチームが目指すのは2連覇。昨シーズンはリーグ3位からプレーオフで優勝する下克上。今シーズンは他チームからこれまで以上の対策を講じられ、昨シーズン以上に厳しい戦いが待っていることは想像にかたくない。

「高校時代にインターハイでベスト4を目標に戦ったら、ベスト8という結果だった。2回戦敗退ほどのチームだったのがベスト8まで行ったのでうれしかったけど、これじゃダメだと思った。優勝を目指しているチームと戦った時、ベスト4を目指すチームが勝てるわけない」

2連覇に向けて必要なのは、今以上に勝ちに貪欲になること。「完全優勝」を目指すモチベーションが必要だ――と考えている。

そこにはおそらく試練が立ちはだかる。

しかし、舛田はバレーボール人生の中で、いくつもの壁を乗り越えてきた。冷静さと情熱を原動力に、道を切り開いてきた。 広い視野と緻密な守備で“もう1本”をもぎ取り、次の挑戦へ。苦しみを乗り越えた心と体で、今日もコートに立つ。

PROFILE
舛田 紗淑(ますだ・さよ) 1997年年10月7日生まれ、北海道室蘭市出身。小学校3年生の時にバレーボールを始めた。地元室蘭市桜蘭中で培った自主性と判断力が、自身の土台となる。高校からは親元を離れて札幌山の手へ。卒業後の2016年に仙台ベルフィーユに入団したが翌年で廃部となり、17-22年の6年間はKUROBEアクアフェアリーズに所属した。旧V1通算78試合出場のアウトサイドヒッター。176cm。

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