選手ストーリー

AC長野パルセイロ

三田 尚希

「木曾路はすべて山の中である」
島崎藤村「夜明け前」の書き出しが、今なお生きる山間部。そこに息づく町々の真ん中には木曽川が、遠く太平洋へと流れていく。静かに闘志を燃やす獅子のサッカー人生も、その流れと重なる。深い谷を曲がりながら進んで、海原にたどり着いた。

文:田中 紘夢

木曽路から青森山田へ 名将のもとで奔走

三田尚希。27歳にしてプロ入りを遂げた遅咲きだ。32歳となった今年は、地元クラブであるAC長野パルセイロのキャプテンに就任した。寡黙で控えめな性格ながらも、地域の期待を一身に背負い、今日もピッチを駆け抜けている。

父親の影響でサッカーを始め、地元の木曽北部JFC(現木曽FC)に入団した。その後は同クラブの友人とともに、隣町の強豪校である上松中へ。チームは2年連続で全国中学総体に出場し、三田も2年時と3年時にその舞台を踏んだ。

長野県はいわばサッカー後進地。当時は地元にJクラブが存在せず、県外で観戦する機会はあったとしても、プロは身近にない。「近場でプロになった選手はそこまでいない。『どうやったらプロになれるんだろう』というレベルで、なかなか明確な目標を持てなかった」。それでも県内ではトップレベルに位置しており、「周りに負けたくない」という一心で競技に打ち込んでいた。

明確にプロを志したのは高校からだった。青森山田高。高校サッカーの全国常連から声がかかった。選手権出場を目指していた三田にとっては好ましいオファーだったはずが、当の本人は「最初は行きたくなかった」という。なぜなのか。

遠方で知人もいないことはもちろんだが、もう一つの大きな理由がある。3年生で迎えた全中。2回戦で京都修学院中に1-2で敗れたのち、監督から「ここが強いから見ておけ」と言われたチームのパフォーマンスに衝撃を受けた。「全国」という水準で戦えるのか――。尻込みした。

それでも両親の後押しもあって、最終的には本州最北端の地へ。ちなみに全中で観戦して圧倒されたチームがまさに青森山田中だったことを、入学してから気付いた。後年に日の丸を背負うMF柴崎岳(鹿島アントラーズ)、GK櫛引政敏(ザスパクサツ群馬)。当時仰ぎ見るような存在が、チームメイトになった。

右も左も分からないまま進んだ道。案の定、“壁”に直面する。技術的な差が大きい上、ピッチ内外での規律も厳しい。中学時代とは全く異なる環境下で、「練習に出たくない日が毎日続いたし、何回も『帰りたい』と思っていた」。恵まれた施設でサッカーに打ち込める日々よりも、地元に帰れる夏休みと冬休みのほうが恋しかった。

それでも心が折れそうで折れなかったのは、両親の支えがあったからだ。中学まではサッカー経験のある父親からアドバイスを受け、剣道の経験を持つ母親からはメンタルを鍛えられてきた。何事にも手を抜かないことを教わり、高校進学の際には父親から「やるだけやってダメだったら帰ってこい」と送り出されたという。

その言葉がなければ、今のプロサッカー選手としての三田尚希も存在しなかったかもしれない。

当時の黒田剛監督の指導からもまた、厳しさの中に愛情を感じていた。普段は何も言わなかったとしても、一瞬でも手を抜けば声を荒げる。私生活でも規律を重んじ、両親と同じくメンタルを鍛え上げてくれた存在。今ではJ1のFC町田ゼルビアを昇格1年目にして優勝争いに導いているが、「『ある程度は結果を残すだろうな』という確信はあった。でも、まさかJ1の首位にいるとは思わなかったので、やっぱりすごいなと思う」。

球際、切り替え、運動量――。黒田サッカーの根本にあるものは、今も昔も変わらない。そのスタイルの是非を巡って議論が巻き起こるが、選手を守る言動は一貫しているという。三田自身も今でも連絡を取っており、教え子思いの性格は変わらない様子だ。

そんな黒田監督のもと、チームは全国初優勝に向けて歩みを進めた。三田はBチームから始まり、2年時にAチーム入り。4-4-2の左サイドハーフを担ったが、同じ中盤には柴崎、椎名伸志(現カターレ富山)と世代を代表するスーパースターがいた。技術的に劣る三田からすれば「ミスをするとしたら僕だったので、なんとか足を引っ張らないように食らいつかないといけなかった」。

左から2人目が三田、右端が柴崎岳

特に同年代の柴崎の振る舞いには、衝撃を受けた。朝も夜もグラウンドに姿を表す“練習の鬼”。まさに24時間をサッカーに費やしていたように見えた。1年時から2人組で基礎練習をともにしてきたが、「いつもミスをするのは自分だった」と苦笑い。追い越すまではいかずとも、追いつくために何をすればいいのか。寮で同部屋でもある柴崎の行動が模範であり、基準となっていた。

2年時には全国高校サッカー選手権大会で準優勝し、柴崎らとともに大会優秀選手に選ばれる。3年時は優勝した滝川二高に3回戦で敗れたが、中学時代に続いて2年連続で全国舞台を踏んだ。傍から見れば順風満帆のようにも思えるが、本人からすれば「食らいついていただけ」。柴崎と櫛引がプロ入りを果たした中で、三田には練習参加の誘いすらなく、黒田監督から「性格的にもJリーガー向きではない」と言われるほどだった。

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27歳にしてプロ入り 遅咲きにも悔いなし

卒業後は法政大に進学。関東大学2部に降格したばかりのチームだったが、3年時までは出場機会に恵まれず。思うように成績も振るわない中で、当時のインタビューから引用すれば「自分自身の弱さを痛感した時期も多かった」。ようやく晴れ間が差したのは4年時で、長山一也新監督(現カターレ富山トップコーチ)のもとでリーグ優勝を遂げる。同リーグのベストイレブンに選ばれる活躍ぶり。1部復帰を置き土産とし、東北社会人1部(当時)のラインメール青森に進んだ。

大学での4年間を経て、高校時代を過ごした青森県に出戻った形。プロ入りの話も上がらない中で黒田監督に連絡したところ、ラインメール青森への紹介があった。練習参加もなしに加入が決定。母校・青森山田高の臨時職員として働きながら、プレーを続ける日々。サッカー部の寮の管理人を務め、年頃の生徒に手を焼く一面もあった。

「朝は自分が担当している寮生の点呼をとって、朝食に行かせる。そこから職員の朝礼に出て、生徒が学校に来ているかどうか点呼をとって、部の連絡事項を伝える。そのあとは遠征にかかる費用を計算したり、お金を振り込んだり、人工芝のはがれているところを張り直したり。午後は練習の指導に当たって、夜は20時に点呼をしていた」

寮の管理人として、真価が問われる仕事はそこから先だ。

散らかった部屋の掃除を促したり、消灯時間を過ぎても長電話している生徒に注意したり――。いわば世話係である。担当していたのはCチームの寮で、試合に絡めずモチベーションが下がってしまう選手もいる。そうなれば生活も不摂生になりがちで、アフターフォローなどに心を砕いた。

母校での仕事をこなしながら、間を縫ってラインメール青森の練習に参加。それがある意味では息抜きとなっていた。チームは全国地域決勝大会で優勝し、翌年から国内4部相当のJFL(日本サッカーリーグ)へ。2016年。アマチュア契約からプロ契約に切り替わり、サッカーだけで生活できる環境が整った。

自身初のJFLの舞台で、30試合中29試合に出場。その活躍ぶりが評価され、翌17年には元日本代表監督の岡田武史氏がオーナーを務めるFC今治に加入した。元Jリーガーも数多くいる環境に身を置き、おぼろげながらプロへの道筋も見え始めていた。

今治での2年目は5位に終わり、J3昇格要件の4位以内にあと一歩届かなかった。それでも三田は3位で昇格したヴァンラーレ八戸からオファーを受け、念願のプロ入り。当時八戸を率いていた葛野昌宏監督は、ラインメール青森時代の指揮官でもある。J3昇格後は指導者ライセンスの関係で強化部長に移ったが、恩師からの誘いを受け、カテゴリーを踏まえても断る理由はなかった。

2019年。大学卒業から5年、27歳にして初のプロ入り。同年代の柴崎はスペインに渡り、日本代表としてワールドカップ出場を目指していた。それ以外の同世代もJリーグで活躍していることを考えれば、遠回りをしたという見方もできる。だが、三田からすればそれが正解だったのかもしれない。

「高校、大学からそのままプロになっていたら、今の自分はなかったと思う。そういう意味では自分の中では一番良い道のりだったし、『もっと早くプロになれるよ』と言われたとしてもこれでよかった」

その過程での出会いも財産となった。

ラインメール青森では、かつてJ2のロアッソ熊本などで活躍した河端和哉(現札幌大監督)から、選手としての立ち振る舞いを教わった。自身にとっては「頭が上がらない存在」で、今季キャプテンに就任する際にも一報を入れたという。

今治でも岡田代表のもと、Jリーグを目指す野心を肌で感じ、キャリアの糧となった。青森山田高の黒田監督を含め、恩師にも恵まれてプロの舞台にたどり着いたのだ。

八戸に在籍したのは1年のみだが、33試合に出場してキャリア初の2桁得点を記録。しかも、プロ初ゴールはアウェイでの長野戦だった。地元出身選手として長野Uスタジアムに降り立ち、サッカー専用スタジアムとサポーターの熱量に心を打たれる。そこからJ3第16節・カマタマーレ讃岐戦で1試合4ゴールを挙げるなどして数字を積み上げると、J3の優勝候補筆頭と目されていた長野からオファーが来た。

地元クラブから誘いを受けた喜びと同時に、悔しさも思い出した。大学時代にも練習参加したが、その際は全く歯が立たなかったという。そこから時間はかかりながらも、オファーを勝ち取るまでに至ったわけだ。第二の故郷である青森県を離れ、オレンジのユニフォームに袖を通すこととなった。

地元クラブの顔に 期待を一身に背負って

三田が長野県に住むのは中学以来。当時の長野は北信越リーグに所属しており、中学2年の途中までは長野エルザSCという名称だった。AC長野パルセイロを明確に認識し始めたのは、2014年のJ3参入以降。それも「山雅と合わせてJクラブが2つある」というくらいの認識で、むしろJ1を経験した松本のほうが印象は強かった。

長野からオファーを受けた際も、はじめは「ただ『地元』というだけだった」。それでも在籍4年間で30ゴールを挙げ、確固たる中心選手に。「試合以外でもすごく声をかけてもらえる。ここにいる人たちのために、なんとしてでもJ2に上がりたいという思いが強くなった」。今季で在籍5年目。長野市出身の小西陽向、諏訪市出身の藤森亮志と並び、チーム最古参だ。小学生以来となるキャプテンにも任命され、まさにチームの顔と言える。

キャプテンらしい性格かと言えば、そうではない。それは自他ともに認めるところだ。ピッチ上では淡々とプレーをこなし、ピッチ外でも自己主張は控えめ。それでもチームのために足を止めず、驚異的な運動量で周囲を先導できる。いわゆる「背中で見せる」タイプで、髙木理己監督からもその点を評価されて指名を受けた。

「僕の中のキャプテン像は、声を出して、チームをまとめて引っ張っていくリーダー。時にはそういうこともやらないといけないけど、それを『毎日やれ』と言われたら無理だと思う。どちらかと言えば背中で見せるほうが合っているし、幸いにも周りのベテランが声をかけたり、気を配れる選手がたくさんいる。任せられるところは任せながら、できることをやっていきたい」

加入1年目には、阿部伸行という偉大なキャプテンがいた。当時33歳の守護神は、三田と同じく大卒でプロ入りを遂げるも、6年目になるまでリーグ戦の出場機会はゼロ。キャリア晩年に加入した長野でも、控えに回ることのほうが多かった。キャプテンを務めた2020年もわずか5試合の出場に留まったが、「ノブさん(阿部)の力は大きかった」と話す。

「プレーもそうだけど、周りに気を遣える方だった。常にアンテナを張っていたし、何か気づいたときには声を掛けていた。試合に出ていないときも、出ているときと何も変わらない立ち振る舞いをしてくれた」

三田自身も重責を担っているとはいえ、出場機会が保証されているわけではない。今季は開幕からスタメンの座をつかんだものの、夏場に入って以降はメンバーを外れることもあった。

それでも「練習から腐ることなくやり続けることは、キャプテンとして意識していた。そこはブレずにできたと思う」。阿部のように声で先導するタイプではなくとも、先頭を走って背中で示し続ける。自分なりのキャプテン像を作り上げている最中だ。

以前から、地元出身選手としてフォーカスされる機会は少なくなかった。一時はそれをプレッシャーに感じて両親に相談したこともあったが、「みんな地元出身だからこそお前に期待しているんだ」と返されたという。その一言でプレッシャーがモチベーションに変わり、今は地域の期待を背負うことを誇りにも思えている。

中学卒業からの13年間で、地元を取り巻く環境も大きく変わった。長野県に2つのJクラブが生まれ、いずれもサッカー専用スタジアムを有している。地元出身選手も次々と育ち、田中聡(湘南ベルマーレ)のように欧州に飛び立つパイオニアも現れた。幼少期の三田が「なかなか明確な目標を持てなかった」と話したプロの世界は、今や手の届く範囲にある。

だからこそ、先駆者として子どもたちに夢を与えなければならない。「Jリーガーという目標をより明確にさせてあげたいし、今だからこそできることはあると思う」。プロである以上はピッチ内で結果を残すことが最優先だが、それ以外にもサッカー教室などの活動に積極的に参加。限られた現役生活の中で、クラブのために、地元のために何ができるか。ピッチ内外で走り続ける構えだ。

今年で32歳。サッカー選手としては、ベテランと称される時期だ。「できてあと数年だと思う。5年はできないかな…」。本人はそうつぶやく。

「どうやってこのクラブをJ2に上げるか。今はキャプテンをやらせてもらっているからかもしれないけど、先のキャリアを描こうとしてもそれしか出てこない。このクラブで戦える残りの期間を大事にしたい」

かつての同級生のように、エリートにはなれなかった。
それでも己の信じる道を突き進んだ。
恩師にも恵まれ、オレンジの誇りを象徴する存在となった。

誰に何と言われようとも、これが自身の選んだ正解。残された時間の長さがどうであれ、三田尚希は背中で獅子の群れを牽引していく。

PROFILE
三田 尚希(さんだ・なおき) 1992年8月16日生まれ、長野県木曽福島町(現木曽町)出身。上松中では3連連続で全国中学総体に出場し、自身も2〜3年はピッチに立った。青森山田高時代の09年は高校選手権の優秀選手、10年は日本高校選抜。法政大からラインメール青森に加入。FC今治を経て19年にヴァンラーレ八戸で初のJ舞台を踏んでシーズン10得点。20年から長野に在籍し、5年目の今季はキャプテンを務める。165cm、61kg。


 

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