“永遠の55”アンソニー・マクヘンリー 信州で築いたグレートな礎
B2優勝、2年連続地区優勝、そしてB1昇格――。信州ブレイブウォリアーズの躍進は、ある一人の偉大な選手を抜きには語れない。アンソニー・マクヘンリー。2017-18〜22-23の6シーズンを信州で過ごし、チームの軸であり続けた。クラブは在籍時の背番号「55」を初の永久欠番に登録。今回は単独インタビューなどを通じ、信州の地に残した功績をつづる。
文:芋川 史貴/編集:大枝 令
フロントの熱意に引かれて加入
勝久HCとの出会いで歯車が動く
「あなたはまだまだ勝つチームに貢献できる」
2017年5月22日。
琉球での9シーズン目を終え、フリーとなっていたマクヘンリー。自由交渉選手リストが発表された当日、信州ブレイブウォリアーズが接触を図ってきた。
言葉の主はクラブ運営会社・信州スポーツスピリット(現株式会社NAGANO SPIRIT)の片貝雅彦社長だった。伸び悩むチームに勝者のメンタリティを注入するべく獲得に動き、すぐさまオファー。その熱量に惹かれ、マクヘンリーも移籍を決断した。
しかし1年目は試行錯誤だった。このチームに自分のプレーをどのようにフィットさせるか。既存のチームメイトとどのようなケミストリーを生み出すか――。
PROFILE
アンソニー マクヘンリー(Anthony McHENRY)1983年4月16日生まれ、アメリカ合衆国出身。ジョージア工科大学ではNCAAのFINAL FOURに導き、卒業後はイギリスBBLリーグやNBAの下部リーグでプレー。一度は選手を引退してコーチの道に進んだが2008年、琉球ゴールデンキングスに加入。エースとして9年間君臨し、4度の優勝をもたらした。17-18シーズンから信州に加入し、B2優勝、B1昇格などに大きく貢献した。B通算358試合、4323得点1423アシスト2699リバウンド。202cm、101kg。
結果的にレギュラーシーズン(RS)を25勝35敗(中地区5位)で終え、「自分たちが願った結果は出せなかった」とマクヘンリー。それでも「チームメイトとは家族」と表現するように、チームに溶け込んでいった。
在籍2年目、時計の針が大きく動き出す。
栃木ブレックス(現宇都宮ブレックス)でアシスタントコーチ(AC)を務めていた勝久マイケル氏をヘッドコーチ(HC)に招聘。同時に現在もチームの柱として活躍するウェイン・マーシャル、石川海斗、栗原ルイスらを獲得した。するとRSは48勝12敗という成績でB2中地区を優勝。プレーオフでも4勝0敗でリーグを制覇した。
マクヘンリーはポイントガードもこなせる器用さと持ち前のリーダーシップでチームを引っ張り、”マイケルバスケ”で重きを置かれるディフェンスでも本領を発揮。スティールやブロックショットなどでマーシャルとともに信州のゴールを守った。
勝久HCは横浜ビー・コルセアーズや島根スサノオマジックを率い、島根時代にはチームをB1昇格に導いた実績を持つ。今もなお敏腕を振るう智将を信州に呼び込めたのも、マクヘンリーの影響が大きかった。
指揮官はセレモニーで「自分が信州に来させていただいたメインの理由が彼(マクヘンリー)。自分がHC1年目のときは本当に(マックは)厄介な選手で苦労した。26歳か何歳かは覚えていないが、そのときも実はマックを誘った。そして10年後ぐらいに働くことができた。一緒に信州に来てこうやって働けて、とてもとても幸せな時間だった」と感謝を伝えた。
マクヘンリー自身も指揮官との出会いをこう振り返る。
「最初はコーチマイクについてたくさん知っていたわけではないが、おそらくコーチマイクには自分のことを『少し閉ざされた性格で、コミュニケーションを取っていく選手ではない』と思われていたらしい。自分としてはもっとオープンに人とコミュニケーションを取っていこうという気持ちがあった」
「その中でコーチマイクが(信州に)来ると決まってからは、どんなバスケットスタイルなのか、どんなコーチングスタイルなのかを学んでいった。その後過ごしていく中で、彼はBリーグの中でもベストなコーチの一人だと私は思っている」
「55」の背中で伝えた“日々成長”
ホーキンソンの成長にも一役
在籍2年目の2018-19シーズンにB2優勝を果たしたが、B1ライセンスの基準を満たさず昇格はできなかった。このライセンス問題はシーズン中に判明したことで、本来であればチャンピオンシップを戦う選手たちのモチベーションが下がっても不思議ではない。
しかし、そんな時にもマクヘンリーはチームに働きかけ、勝者のマインドを伝えた。
「優勝するチャンスに巡り合う選手はキャリアの中でも少ない。こういう結果になってしまったけれど、目の前にある優勝のチャンスをつかみ取れるか取れないかで、来シーズンの僕らの戦い方は変わってくる」
昇格の可否は問題ではない。
大切なのは“日々成長”するかどうかだ。
そして翌年のチームは40勝7敗(RS)の圧倒的な成績でB2中地区を優勝。このシーズンは新型コロナウイルス感染拡大に伴ってリーグ戦が中止となったが、ライセンスが交付されなかった1年間、しっかりと日々成長を積み重ねた信州が勝率1位でB1昇格を決めた。
このように試合でのプレーだけでなく、日々の言動や取り組みの中で、「55」の背中は周囲に大きな影響を与えていた。例えば日本代表のジョシュ・ホーキンソン(現サンロッカーズ渋谷)も信州に移籍してきた当初は、オフェンス面やデイフェンス面、リーダーシップの面も今よりも粗削りだった。
しかしマクヘンリーから直接学んだことで、攻撃面はもちろん、ピックアンドロールディフェンスや、ブロックショットのタイミングなど、プレーにおける駆け引きが上達。今では日の丸を背負って世界と対峙する”大鷹”へと飛躍した。
第2の人生は愛する家族とともに
色褪せない6シーズンの功績
そんなマクヘンリーも2022-23シーズンを最後に引退を発表。引退の理由はいくつかあるというが、シーズン最終戦・新潟アルビレックスとの第2戦で応援にかけつけていた家族がふと目に入った。「妻と一番年下の子どもを見て、ちょっと家族が恋しくなった」
長年、異国の地でサポートをしてくれた家族との時間を大切にしたい――。
「普段だったら1週間ちょっと家族と過ごして、バスケットボールをしに体育館に戻っていったけれど、今回は『バスケットをもうやらなくていい』という気持ちになって、『家族ともっと過ごしたい』という気持ちが増えた」
「他にも選手を続けていくことに対して不安な気持ちも生まれていた。年齢を重ねて、うまくケアをしても疲れが残ってもいた。シーズンが終わった2カ月間の中で考えて、引退する決断に至った」
2023年7月17日。
本人のインスタグラムにはオフに好んで嗜むワインと葉巻の写真が投稿され、コメント欄には今までのキャリアと引退を労う多くのコメントが寄せられた。
引退後の去就に多くの注目が集まる中、古巣・琉球のACに就任した。「特定のプランはなかったが、日本に来る前はコーチングをしていたので、そのような経験やバスケットに関わっていたいという思いはもちろんあった」という。新たな道を模索していた矢先に飛び込んできた古巣からのオファーに、快くサイン。ACとして琉球の準優勝に貢献した。
昨季は沖縄アリーナでセレモニーが行われ、琉球に在籍時の「5」が永久欠番となった。それから約9カ月後。今度は幾多の思い出が詰まったことぶきアリーナ千曲でも、「55」が永久欠番に登録された。午後5時55分。会場に詰めかけた2,800人余のブースターが一斉に黄色の風船を飛ばし、その功績をねぎらい、称えた。
そしてマクヘンリー自身も、この地で過ごした6年間を誇っている。
「すごく長野を愛しているし、美しい場所だと思っている。人もとても親切で、自分の家族に対してもよくしてくれた」
「コーチマイクのバスケットは、いつも高いレベルで競争ができるようにしてくれた。その中でやれたのはすごくうれしく思う」
「自分がいた1年目から比べると、現在の信州の位置はとても飛躍した。今季のロスターを見ても、今までの信州の中でも一番タレントがあるチームだと思う。そうした歴史のあるチームの選手として、数年間自分も歴史を作れたことをうれしく思う」
来日して初めてプレーした琉球、その後に在籍した信州。15年間で、日本のバスケットボール界に大きなインパクトを残した。
今季の信州には昨季まで琉球でプレーし、1年間マクヘンリーの指導を受けた渡邉飛勇も加入。彼もまた日本代表や信州でも頭角を表してきた。選手のメンタリティや技術は、世代を超えて受け継がれていく。
それだけではない。
いずれ遠い未来、マクヘンリーのプレーを見たことがない世代が大半を占める日が来るだろう。それでも“永遠の55”は色褪せることはなく、伝え続けてくれるはずだ。グレートなフランチャイズへの礎を築いたマクヘンリーの功績と、彼を愛した人々の情熱を。