トラックでチームの荷物運びも 元AC長野の三田尚希さんが送るセカンドキャリア

圧倒的な運動量は引退後も変わらない。AC長野パルセイロを支えた三田尚希さん。木曽福島町(現木曽町)出身で、2020年から6年間AC長野でプレーした。J3通算216試合出場43ゴールの記録を残し、25年に現役引退。セカンドキャリアは株式会社エスラインの運送業を軸に、SBC信越放送の「ずくだせテレビ」にも出演するなど多彩な活躍を見せている。サポーターから“さんちゃん”の愛称で親しまれた33歳は今、何を思い描いているのか――。その胸中に迫った。
文:田中 紘夢
KINGDOM パートナー
主将として重圧と戦い続けた晩年
契約満了後に救われた父親の一言
「『頑張ってね』という言葉がすごく苦しい時期があって…。自分の中でいろんなものを背負い込みすぎていた」
20年にAC長野へ加わると、2年連続で二桁ゴールを記録。すぐさま中心選手となった三田さんだが、キャリアの晩年は重圧との戦いが続いた。

24年から2年連続でキャプテンという大役を託されたが、チームは残留争いの渦中に。地元出身選手としても期待を背負うあまり、責任感に押しつぶされた。「勝手に抱え込みすぎて、応援してくれる人たちの純粋な思いさえも入ってこなかった」と当時を思い返す。
25年はリーグ戦38試合中21試合の出場にとどまり、シーズン終了後に契約満了。現役続行を模索したものの、オファーが届いたのはアマチュアクラブのみだった。

働きながらサッカーを続ける選択肢はそもそも念頭にない。大学卒業後に東北1部リーグのラインメール青森に加入し、母校である青森山田高校の寮管を務めながらプレーしていた際、両立する苦労を身をもって知ったからだ。
苦しむと分かっていても現役を続けるか、地元で輝けるうちに幕を下ろすか――。心境が揺らいだ三田は、木曽郡木曽町の実家に住む父親に電話を入れた。そこで、何気ない一言に救われたという。
「Jリーガーで終わっていいんじゃないか」

27歳にしてプロ入りを遂げた遅咲きのキャリアだが、地元クラブでシンボルとなった。AC長野をJ2昇格に導く目標は果たせなかったが、11年間の選手生活に「やりきった」と胸を張る。
重圧から解放され、父親の一言で迷いも断ち切られた三田は、新たなキャリアに踏み出すことを選んだ。
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引退後はクラブスポンサーの一員
札幌までチームの荷物運びも
現役を退いても、AC長野との縁は切っても切り離せない。
セカンドキャリアの勤務先は、クラブをスポンサーとして支える株式会社エスライン。アウェイゲームの際にチームの荷物を運送している企業で、代表取締役の青木栄樹さんとはかねてから親交が深かった。
そんな青木さんの誘いを受けてエスラインに入社。昨季のアウェイ北海道コンサドーレ札幌戦では、青木さんに同行してチームの荷物を大和ハウスプレミストドームまで運んだ。AC長野で同僚だった札幌DF浦上仁騎とも再会した。
自身もトラックの運転手を担い、現役時代を過ごした東北まで出向く日もある。往復で半日かかる距離だが、「長距離運転は苦じゃない」。仕事場が変わっても、運動量は豊富なままだ。
予想外の仕事も舞い込んできた。SBC信越放送のローカルワイド番組「ずくだせテレビ」からオファーが届き、クラブOBの大橋良隆氏の後継としてコメンテーターに就任。人前で話すのは得意ではないと自覚しながらも、「新しい自分を見つけるチャンス」と捉えて飛び込んだ。
そこでも現役時代の経験が役立った。AC長野のキャプテンとして取材を受けたり、セレモニーで登壇したり、チームをまとめ上げたり――。日々発信を重ねたことで、自然とコミュニケーション能力が養われていた。その経験はテレビ出演に限らず、会社の組織づくりにも生かされているという。
ほかにもサッカーの指導や講演など多方面で活躍。エスライン代表取締役の青木さんに「挑戦を応援したい」と背中を押され、会社に所属しながら活動の幅を広げている。

すべてはAC長野が繋いでくれた縁だ。三田さんは「パルセイロにいなかったらできないことばかり。今でも本当に感謝している」と思いを込める。
オレンジ・ヴィゴーレの名のもと
地域とクラブを盛り上げる源泉に
一度はクラブからスタッフ就任の誘いも受けたが、内側ではなく外側から支えることを選んだ。クラブの看板に頼るのではなく、一人のプロフェッショナルとして力をつけ、それを還元するためだ。
クラブについて発信する際の肩書きとして、「オレンジ・ヴィゴーレ」の名も授かった。ヴィゴーレはイタリア語で「活力」「力強さ」という意味。三田さんが体現してきた献身的なプレーと重なるものがある。
「外側にいるからこそ見えるものはあるし、クラブと地域の繋ぎ役にもなれると思う。自分は地域の方々の思いをクラブに伝えられるし、逆にクラブの思いを地域の方々にも伝えられる。変わるための力になれたら」
今は現役時代から続けている農業を学んだり、地元の木曽町での地域貢献を画策したり。好奇心が赴くままに、可能性を耕している最中だ。

どれも実を結ぶには時間もかかるが、そもそも選手としてプロ入りするにも大卒から4年はかかった。遅咲きの選手生活と照らし合わせながら、セカンドキャリアも地に足をつけて歩んでいる。
「今はプロになる前の過程と似ていると思う。最初の数年は苦しむのは分かっているけれど、やればやるだけ形になっていくので、そのときを想像しながらワクワクしている。自分なりに地域とクラブを盛り上げられたら」
そう話す三田さんの表情に、選手生活の晩年のような重苦しさは微塵も感じられない。ピッチを離れてもなお、地域のため、クラブのために――。走り続ける覚悟が、その目に宿っている。

クラブ公式サイト
https://parceiro.co.jp/


















