夢を原動力に走る″赤備え”丹羽英司 上田からスーパー耐久の頂点を目指して

「夢を語るのは楽しい。生きる原動力になるし、生活も仕事も頑張れる」。そう語る丹羽英司の言葉には、ワクワク感に満ちていた。上田市出身。レーシングチーム「NIWA RACING」代表で、耐久レースの国内最高峰「スーパー耐久」(S耐)で奮闘を続けている。本格的なサーキットがない長野県で、どのように道を切り開いてきたのか――。その半生をひも解くと、尽きせぬ情熱が根底に流れていた。

文:武居 惠美

兄とF1中継を見た少年時代
ロードスターで知った“楽しさ”

マシンにあしらわれた、真紅のチームロゴが目を引く。真田家の家紋として名高い六文銭と、真田幸村の象徴である鹿角の兜がモチーフ。信州上田の誇りを織り込んで、サーキットを疾走している。

生まれ育った上田市に今も拠点を置く丹羽。自動車販売業を営みながらレーシングドライバーとして活動している。自ら立ち上げたNIWA RACINGでは、スーパー耐久をはじめロードスターやN-ONEなどの入門カテゴリーにも参戦する。

ホンダ系の部品メーカー勤務の父と、F1が好きな兄に囲まれて育った。モータースポーツとは親和性の高い環境。しかし自身は意外にも、子どもの頃からレーサーを目指していたわけではなかったという。

「レースがすごく好きというわけではなかったけれど、常にクルマの話題が家庭にあった」

転機は20歳の時だった。マンガ『頭文字D』でトヨタAE86(ハチロク)に憧れたが、その当時でも入手しにくい車種。その流れで、マツダのユーノス ロードスターに出合う。これまで15台ほど乗り継いできた「大好きな車」だ。

「バランスが良くて、運転を教えてくれる車。何より、乗っていて楽しい」

次の扉を開いたのは、鈴鹿サーキットの遊園地で乗ったレンタルカート。長野県内で走れる場所を探して北安曇郡池田町のサーキットあづみ野を知り、15万円の中古カートを購入。結婚したばかりの時期だったが、「今買わないともう二度と(レースが)できない」と思い切って決断したという。

そこから、丹羽のレース活動が走り出した。

とはいえモータースポーツは、情熱だけでは続けられない。車両、タイヤ、ガソリン、メンテナンス、遠征費――。突き詰めようと思えば思うほど、必要な資金は膨らむ。だからこそ、工夫した。

「当時はサラリーマンでお金はなかった。限られた予算の中で知恵を絞って、チューニングにお金をかけずにタイヤやガソリン代に使った。中古本を読んで独学で研究した」

その情熱は周囲に伝播する。家族も「この人は走っていないとダメなんだ」と生き方を受け止め、支えてくれているという。

準備する者に好機は舞い込む
「じゃあ、いこうか」でS耐参戦

スーパー耐久参戦のきっかけは、オンラインレースの仲間とのつながりだった。

「コロナ禍のころ、仲間とグランツーリスモのオンライン大会に出た。“リアルでもレースがやりたいね”という話になり、マツダが主催する『マツ耐(マツダファン・エンデュランス)』に出た。『いつかスーパー耐久にも出てみたいね』と話していた」

スーパー耐久は簡単に「出ます」と言える舞台ではない。

だが、レース仲間の縁に導かれ、突然のチャンスが舞い降りてきた。株式会社高砂エアテック(千葉)が所有するスーパー耐久仕様の車両を貸し出す――という話。レンタル代のサポートは、セレクトホテルズグループ(東京)の代表取締役が名乗り出た。

2025年12月、大筋で合意。スーパー耐久の年間エントリーはすでに締め切られていたものの、事務局に連絡して参戦が受理された。「たくさんの方にサポートしていただいて、参戦することができた」。丹羽は周囲への感謝を強調する。

そして、新たな一歩を踏み出す。

「じゃあ、いこうか」

言葉にすると軽く響くかもしれないが、単なる思いつきではなかった。丹羽はそれまでの4年間、スーパー耐久のOVER DRIVEでドライバーとして戦いながら、誰よりも早くサーキットに入り、搬入や準備を手伝い、チームがどう動くのかを見てきた。

そうした日々の積み重ねが引き寄せたチャンス。手を伸ばさない理由はなかった。

「みんなと相談して、タイミング良いんじゃない?やっちゃえば?やろうよ!と」「夢って思い続けていればかなうんだな…と思った。諦めずに続けてきたことがよかった」

チーム結成から5年。自分のチームでスーパー耐久に出ることは、昔の丹羽には「全然想像していなかった」ことだという。

多重クラッシュの夜を越えて
仲間と直した“最高の思い出”

レース仲間とのつながりからS耐参戦が転がり込んできたように、丹羽は「人との縁」をことあるごとに口にする。多くの力が重なって、ようやく1台の車はコースへ向かう。

今回のS耐24時間でも、それを強く感じる出来事があった。前日の夜間走行で車両前方が大きく壊れるアクシデントが発生。一度は諦めることも頭をよぎったが、チームは「直るかわからないけれど、やってみよう」と決めた。

「車両のフレームまで曲がっていたので、トラックで引っ張って、メカニックが叩いて、直して……。フレーム修正機もないのに」

笑いながら振り返る丹羽。あるもので、できることをやる。メカニックも、ドライバーも、スタッフも夜通しで修理にあたり、金曜日の予選に間に合わせた。丹羽はその出来事を「最高の思い出」と笑顔で振り返る。

「レースは一人じゃできない。仲間、お金、腕、運、応援してくれるファンがいないとできない。だから、人との出会いを大切にしている」

例えば監督としてレースコントロールを担うのは、東京電機大学自動車部の庄野涼香さん。さらに、長く支えてくれた「家族」のような存在もいる。埼玉県熊谷市で自動車整備工場を営む、ユーロライン有限会社の社長だ。

「時には修理をほぼ無償で受けてもらったり、家族のようにかわいがってもらった。ずっとお世話になってきたから、今度は自分が返す番かなと」

受けた恩を、次世代に送る――。

丹羽が若手育成に力を入れる理由は、そこにある。現在、NIWA RACINGには若い世代も多く関わる。挑戦したい若者には車両を貸し出し、アドバイザーとして見守りながら、必要な場面で背中を押す。

「困るとみんなが助けてくれた。自分が支えられてきたから、今度は若い人たちを支えたい」

次の夢はニュルブルクリンク
長野にモータースポーツの入口を

そうした営みの先に、どのような未来図を描いているのか。次の夢を聞いた。

「いつかスーパー耐久シリーズで勝ちたい。今回の24時間レースだって完走できたら泣くし、表彰台に上る日が来たらもう号泣だよね…と仲間と話している。海外も、ドイツのニュルブルクリンクとかフランスのル・マンとかを走りたい」

視線は、足元の長野県にも向く。

「長野県をモータースポーツで盛り上げたい」

大きなサーキットがない長野県は、若手が育ちにくい土壌だ。それでも――と丹羽は続ける。

「サーキットあづみ野さんもあるのでカートからのステップアップもできるし、今はシミュレーターでもトレーニングができる。僕も講師としてレッスンを受け持つ。県内のレースチームと組んで、イベントを開いて認知度を上げたい」

「夢を持つ人は、勇気を出して一歩踏み出してほしい。僕は誘われたら行っちゃう。一歩踏み出した先で、新しい出会いや楽しいことも待っていると思う」

自分の「好き」を、どこまでも貫く。憧れを、憧れのままで終わらせない。そうした情熱が自然と仲間を増やし、一つのムーブメントまで昇華した。

いつかニュルブルクリンクを仲間と笑顔で駆けるその日まで――。情熱の赤備えに身を包み、信州上田発のモータースポーツはどこまでも駆動する。


チーム公式サイト
https://niwaracing.github.io/teamhomepage/


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