“松本山雅が育てた、うちの子”村越凱光 7年目で迎えた巣立ちのとき

最も長く松本山雅FCのエンブレムを背負ってきた成長株のアタッカーが、クラブを去る。MF村越凱光、24歳。2020年に飯塚高(福岡)から加入し、7シーズンを松本で過ごしてきた。J2テゲバジャーロ宮崎からの熱烈オファーを受け、「本当に悩みに悩んだ」という末に移籍を決めた。恩義と挑戦の狭間で揺れながら、“巣立ち”のときを迎えた。
文:大枝 令
KINGDOM パートナー
「ごまかし」はおそらく苦手?
うっすら漂っていた別れの気配
風物詩のようなやり取りがあった。
シーズン終了の前後。必ずと言っていいほど、本人にたずねる。「オファー、あったんじゃないですか?」。気が付けば在籍は長く、フランクに来季の動向を聞く間柄になっていた。

「いやあ、大丈夫っすよ!」。回答はいつだって、快活で明確だった。そして実際、次シーズンはまた緑のユニフォームをまとって奔走していた。そんなシーズンが当たり前のように積み重なって、高卒から7年目のシーズンが過ぎた。
そんな風景が、いつしか当たり前のようになっていた。もちろん、村越自身は毎年のように大きな進化を示してはいたけれども。

しかし、今季。従来通りのテンションで問いを投げかけると、返答のトーンが明らかに違っていた。嘘をついたりごまかしたりするのがあまり得意でないのも、村越の美点なのだろう。
いよいよ“その時”が来るのかもしれない――。別れの準備が、その瞬間から始まる。実際に松本山雅を取り巻く人々は何度も何度も、一時代を築いた選手が去るのを経験してきた。プロの世界は、そういうものだ。
それなのに、今回。
別れの準備は、簡単ではなかった。

理由は明快だ。クラブの歴史に名を連ねるバンディエラの面々がたどってきた来歴とは異なり、村越凱光は正真正銘“うちの子”だからだ。高卒ルーキーとしてプロ入りしてから時間と空間をともにし、喜怒哀楽を味わいながら、その成長を見守ってきた。
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高卒ルーキーから7年間で成長
苦難の道のりでも一縷の望みに
加入は2020年。J1から降格し、J2でリスタートした1年目に重なった。J1時代となる19年の鹿児島キャンプに練習参加したから、当時の張り詰めた空気は骨身に染みている。
いきなりコロナ禍に見舞われる。リーグ再開後もチームは低空飛行を続け、気がつけばJ3に身をやつしていた。J3初年度の22年、6月にJFLラインメール青森に期限付き移籍。復帰した23年以降はめきめき頭角を現したものの、カテゴリーを上げられたわけでなかった。

大きな成功体験を共有したわけではない。それでもなお村越が“うちの子”なのには、確たる理由がある。
素直に物事を吸収し、自分にベクトルを向け続けてきたから。勝利への飽くなき執念を絶やさずにいたから。そしてそれらを、ピッチでいつも表現してきたからだ。
もちろん、若さがマイナスに転じたこともある。例えば2023年J3第16節・愛媛FC戦。味方を老獪に封じた相手DFのプレーに激怒し、退場処分を受けた。それ以外にも、物議を醸したシーンがないといえば嘘になるだろう。

「何度か『やらかした』ことがある。その中でも批判じゃなくて、応援で元気付けてくれて、味方をしてくれるサポーターが7年間いた」
「実際には4年ぐらいしかちゃんと試合に出ていないけれど、僕を好きだと言ってくれるサポーターがいたし、今年はまたさらに増えた」

その日その時、スタジアムで喜びを共有した。
思いはあるのに、結果が出ない日々を過ごした。
それでも村越の成長が、一条の光になり得た。

それはさながら、思い通りにいかない子育てのようなもの。いつかどこかの公園で転んで泣く子を励ますのと同じように、スタジアムからはいつも声援が降り注いでいた。
だからこそ、バイアスがかかるのは当然の成り行きだろう。初めてゴールを決めたのは、ふらつきながら2本の足で立った日。負けてピッチに突っ伏したのは、ケンカして泣きながら帰ってきた日――。
励まして手を引く以外に、選択肢などない。

百年構想リーグで得た皮膚感覚
返し切れぬ恩を胸に、巣立ちへ
それは村越自身も理解している。だからこそ、とことん迷った。実際に春の段階で宮崎からオファーが来ていたが辞退。「その時は『山雅で戦って昇格させる』という気持ちでいた」と明かす。
しかし、徐々に現在地が明らかになっていく。J2クラブとの対戦機会も多いJ2・J3百年構想リーグ。ジュビロ磐田、北海道コンサドーレ札幌、RB大宮アルディージャ――。格上と身体をぶつけながら、皮膚感覚が確信に近づいた。

「J2勢に点を決めることが多くて、(相手が)これくらいなら自分もできるんだ…という成功体験ができてきた」
「百年構想リーグでJ2と対戦する機会があったからこその成功体験があった。それがなければもしかしたらずっと(松本山雅に)いたかもしれない」

そして舞い込んだ、2度目のオファー。「どれだけ必要とされているかを、山雅からも向こうからも聞いた。本当に、どちらからも必要とされているんだと感じた」と振り返る。
悩んで、迷った。それでも最後は「巣立ち」を決めた。夢から逆算すれば、このタイミングを逃す理由はなかった。

「海外でプレーしたい…というのが一番。1日でも、1年でも早くJ2の舞台で結果を残さないといけない」
選手生命が短いサッカー選手にとっての1年は、計り知れないほど重い。ましてや、住み慣れた家を巣立とうとする“うちの子”の裾を、必要以上には引っ張れない。

神奈川県出身。5人きょうだいの3人目として育ち、小学生時代は器械体操の才覚も見い出されていた。それでも自身はサッカーを選択。当時新進校だった飯塚高に身を投じ、無名の無印からプロの世界に足を踏み入れた。
初めて振り込まれた報酬は「今まで育ててもらった恩を考えれば少ない」と、迷わず親に全額渡した。受けた恩は決して忘れない、律儀な人柄。同様の恩義は、松本にも感じている――という。

「僕が松本山雅に受けた恩は、一生かかっても返し切れない。山雅のエンブレムを背負って戦ったことは、僕の人生でかけがえのないもの」
7年間。どんな環境であれ貪欲に吸収し、自分のものにしてきた。「突貫小僧」のような側面を残しつつ、精神的にも成熟してきた。だからこそ、指揮官が入れ替わっても常にピッチで輝きを放ってきた。

そして今。巣立ちの時を迎えたものの、松本山雅は常に「帰るべき家」として存在する。それは前田大然にとっても、横山歩夢にとっても、小松蓮にとっても同じ。心地よき緑の実家として信州松本の地に根を張り、松本山雅であり続ける。
「もちろん、引退するなら山雅です」
取材の最後に、村越はそう言って右手を差し出した。表情は自信に満ち、握った手は力強い。松本山雅が育てた“うちの子”。緑の愛情を浴び続けて7年が経ち、どこに出しても恥ずかしくない“自慢の子”となった。
だからこそ、願ってやまない。
その夢が、かないますように。
旅路が健やかでありますように。
そしていつかまた、この街で会えますように。

村越凱光選手 テゲバジャーロ宮崎へ完全移籍のお知らせ
https://www.yamaga-fc.com/archives/549447
村越凱光選手 松本山雅FCより完全移籍加入のお知らせ
https://www.tegevajaro.com/news/773














