松本山雅FC
村山 智彦
松本山雅FCがJ2に参入したのは2012年。波乱万丈の歩みは、このベテランGKのキャリアと大きく重なる。13年に加入して足掛け11年目。最古参かつ最年長の守護神は陰日向にチームを下支えし、若きチームに緊張感を与えている。この街で命を燃やすのは、半ば必然の成り行き。アマチュアからJ1に至ったカラフルな因果の糸を、改めて解きほぐしていく。
文:大枝 令
松本で積み上げた数字
全ては日々の「準備」から
Jリーグ通算213試合。
J1湘南ベルマーレに在籍した2016年の27試合を除き、その数字は全て松本の地で積み重ねた。37歳とベテランの領域に入って久しいものの、シュートストップはいまだ健在。よく通る声で最後尾からコーチングの声を飛ばし、未然にピンチの芽を摘む。
練習場では、緩いプレーに対して声を荒らげることもしばしば。チーム最年長。もちろんピッチを離れればフランクで後輩の面倒見もいいが、“ちょっと怖いお兄さん”のような役回りだ。血気盛んな若手たちのイジりも、適切なラインで自然とブレーキがかかる。
今季は9月5日の時点で、公式戦の出場はゼロ。プロ入りした2013年から通算しても、この時期までピッチに立っていないのは1年目以来のことだ。
それでもベンチから、チーム全体を盛り立てる。J3第25節・SC相模原戦のように、土壇場で決勝ゴールが決まれば喜びを爆発させる。ゴールを決めたMF村越凱光に駆け寄るため、バックスタンド寄りまでフルスプリント。「久しぶりにあの距離をダッシュした」と苦笑する。
それでも、選手である。
当然、期するものはある。
「ベテランって便利な言葉。『ベテランなんだから』と言われると、それで全部まとまってしまう。その先に『別に試合に出られなくても…』とか『チームをまとめる役割が…』と続く。それはそうなんだけど、まずはいちプレーヤーとしてやるべきことはやるし、ダメなことはダメ」
例えば朝早くからクラブハウスに姿を現し、入念にトレーニングの準備をする。「早く行ったけど、やっぱりムラさんがいた」。キャプテンのMF菊井悠介がそう言って教えてくれたことがある。
それでもピッチは遠い。
けれども、準備は怠らない。
この街のサポーターのために。
「ここのサポーターは『サッカーが好き』というより、『山雅が好き』。松本山雅というサッカークラブがこの地域のために、ちゃんと真面目に泥くさく戦っている姿が好きなんだと思う」
GKに出番が回ってくるのは、いつだって突然だ。だからこそ、たとえ日の目を見ずとも、泥くさく準備は続けていく。そんな日々を繰り返し、根を下ろしてずいぶん経った。
2014年11月1日。
レベルファイブスタジアムでJ1昇格に立ち会った。
2015年3月7日。
J1初陣の豊田スタジアムで、DF田中マルクス闘莉王のPKを止めた。
2019年4月20日。
元スペイン代表FWフェルナンド・トーレス擁するサガン鳥栖を下した。
苦楽をともにしながら、魂の緑色を深めてきた。
そんな守護神の物語だ。
幼少期に染まった「黄色」
GKの基礎スキルを体得
始まりは黄色だった。
千葉県市原市出身。身近には、ジェフユナイテッド市原(当時)があった。幼少期からサポーターとして、ホームスタジアム・市原臨海競技場に両親と通う。ゴール裏でチャントを歌い、飛び跳ねていた。
「スタジアムの雰囲気とか、裏から見る選手たちの輝きとか。今でも鮮明に覚えている」
自身も小学校5年生からGKだったこともあり、とりわけ守護神は頼もしく見えた。強く印象に残っているのは櫛野亮。高卒1年目の2000年を皮切りに、足掛け12年間在籍したGKだ。「まずシンプルにカッコいいし、(シュートを)止める。憧れていたし、脳裏に強く焼き付いている」と振り返る。
12番目の選手として後押ししていたからこそ、今の松本山雅サポーターの心境も理解ができるという。
「他人事じゃなくて、自分事にしてくれている。もちろん負けたら選手も悔しい。でもサポーターの人たちも、どうでも良かったら怒ることすらない。例えば自分が今この年齢でサポーターだったとして、ここまで怒れるかな…と考えるとわからない」
「怒られてうれしいわけじゃない」と苦笑いしつつ、それだけの質量の情熱を乗せてもらえる存在であることに、自然と身が引き締まる。
「松本山雅の選手で良かったと思う」
サッカー始めたのは小学校3年生の時。周囲に誘われたわけでも兄弟の影響でもなく、テレビのハイライト番組を見て興味を持った。華麗なゴールが矢継ぎ早に映し出され、中には外国籍選手のストライカーもいた。
「日本にわざわざ来て、サッカーというスポーツをやっている人がいるんだ」。当時は外国人が身近にいたわけでもない。地続きの日常とは違う、華やかな世界に漠然と憧れた。あとはその番組で、辛口批評のセルジオ越後氏が印象に残っていた。
実家にほど近い三井千葉SCでサッカーを始める。一つのボールをみんなで追いかけるのは、純粋に楽しかった。ほどなく、同クラブ内で競技性の高い別拠点のチームへ。周囲のレベルはぐんと上がったが、向上心に火がついた。「うまくいかないことの方が多かったけど、挑んで克服していくのがすごく楽しかった」と振り返る。
同年代の中では身長が高く、5年生からセンターバックとGKを兼任。試合に際しては2種類のユニフォームが準備されていたという。プロ選手の幼少期によくある、ストライカーやゲームメーカーに対する憧れは特になかった。
GKでも、輝ける瞬間を味わっていたからだ。例えば大ピンチを迎えたとして、食い止めればチームメイトや保護者から大きな歓声が上がる。それはストライカーがゴールを決めたのと同じだけの価値を帯びるプレーでもある。
「やっぱり止めると盛り上がったし、それが自分の中で心地良さを感じていたんだと思う。『俺、すごい活躍してるじゃん』みたいな」
県内ではハイレベルな環境に身を置いていたものの、全国舞台まで届いたことはない。同学年の他チームに、圧倒的なストライカーが君臨していたからだ。どれだけ食い止めても、最後は個の能力でゴールを破られる。何度も同じ選手に苦杯を舐めさせられた。
憎らしいその選手の名前は、船山貴之と言った。
14年後の2013年、松本山雅で再会することになる。
物語は中学生時代に加速する。ジェフユナイテッド市原辰巳台ジュニアユースでプレー。トップチームが練習拠点を移したタイミングに重なり、プロが一気に身近な存在となった。
とりわけ、週に1回の特別レッスンは大きな刺激だったという。ユースも含めたアカデミー合同で、GKだけの練習会が定期開催されていた。しかも、トップチームが使っている天然芝の練習場で。ユースの高校3年生にはプロ入りが内定していた高木貴弘。現サガン鳥栖の岡本昌弘もいる環境で、ともにトレーニングに打ち込んだ。
「止め方一つにしてもいろんな止め方があるし、ボールキャッチもいろんなパターンがある。GKの奥深さをすごく知れた。それプラスやっぱり、自分が小さい頃から好きだったクラブで練習できている。高揚感とかワクワク感がすごかった」
こうして3年間を過ごした村山。
以降のサッカー人生は徐々に、色味の異なる青に染まっていく。
高校、大学、そして社会人
「青」の出合いに恵まれて
同じ千葉県内の名門・市立船橋高に進学。布啓一郎監督から石渡靖之監督に代わった直後の過渡期だった。2003年の天皇杯3回戦、J1の横浜F・マリノスと延長戦までもつれた試合は1年生として見守っていた。
同じGK陣の顔ぶれは、今にして思えばそうそうたるメンバーだった。2学年上に佐藤優也、1学年上に中林洋次。1学年下は笠原昂史、2学年下は上福元直人。村山を含めた4人がJ1を経験しており、唯一J2の笠原にしても今季はJ3首位独走の大宮アルディージャで不動の守護神として君臨している。
インターハイ、選手権とも全国制覇には届かなかった。とはいえ、ハイレベルな環境で疾走。「その日その日を生きるのが必死だった」と振り返る3年間を経て、次なるターニングポイントの大学時代を迎える。
そこはサックスブルーが色濃かった。
静岡産業大。
当時は開校まもない時期。磐田キャンパスにサッカー部はあり、充実したトレーニング施設が整っていた。ジュビロ磐田と提携関係にあり、磐田のアカデミーから経験豊富なGKコーチが派遣されて来ていた。
実は大学進学に際し、熱心に情報を集めていたわけではなかったという。「箱根(駅伝)に出ている大学くらいしか知らなかった」。当初は東京六大学から誘いが来ていたものの、理系学部に入学する条件を提示されて尻込みしていた。
そこで、“サッカーどころ”の新興校を選んだ。しかし、「市船から『来てやった』みたいなマインドが態度に出ていて、完全にいい気になっていた」。1年時から試合出場はするが、徐々に雲行きが怪しくなっていく。
規律から解放された大学生活。運転免許を取得して、翼を授かった。ドラッグストアでアルバイトをして、自由になるお金を手に入れた。友人たちと深夜にアミューズメント施設に行き、投げ放題のボウリングをして、朝までカラオケに興じた。
最後の良心が残っていたのか練習だけは出ていたものの、「態度は相当、良くなかった」。周りは苦々しい思いをしていたのだろうが、言動を咎める者もいない。軌道修正するきっかけもないまま、沈没しかけていた。
そんなタイミングで、大橋昭好GKコーチが声を荒らげた。大学2年に上がる直前の時期だった。
「千葉を離れて静岡の大学まで親に行かせてもらっているのに、なんでちゃんとやらないんだ。迷惑をかけるのであれば、もうきっぱりサッカーを辞めた方がいい」
言われた内容もさることながら、大橋GKコーチの立場が、より説得力を強めていた。本来の在籍は磐田のアカデミー。派遣先の大学生に対して向き合ってくれたことを、ことのほかありがたく感じたという。磐田で多くの選手をトップチームに昇格させてきた経験から、プロに必要なマインドやスキルも説いてくれた。
「大橋さんの立場だったら、別に言わないでおくこともできたと思う。それでも言ってくれたのも、自分の中では大きかった」
現在の大橋氏はJFAコーチで北信越・東海のGK担当。姿を見ると今でも、自然と背筋が伸びる。
本来目指すべきプロへの道筋を思い出し、心を入れ替えた村山。チームの練習だけでなく、講義もアルバイトも両立させる日々を送るようになった。すると2年生の夏に総理大臣杯で準優勝。決勝は流通経済大に1-3で敗れはしたものの、「努力が結果につながる」という成功体験を得た。
並行して大学1〜2年時は、磐田に何度となく練習参加していた。名波浩も中山雅史も現役で、同じGKには川口能活。そして当時磐田ユースの有望株もトップチームに交ざっていた。山本康裕だ。今季初めてチームメイトとなり、松本山雅でともに戦っている。
生まれ育った市原のジェフ。
大学4年間を過ごした磐田のジュビロ。
村山のサッカー人生には、常にプロクラブがあった。そこから受ける上質な刺激こそが、向上心や闘争心をくすぐってきた。「中学の時もそうだけど、学生時代にそういう存在が近くにいてくれたのが大きかったと思う」
だが、プロにはなれなかった。何カ所かのJクラブに練習参加したものの、オファーを得るには至らない。JFL(日本フットボールリーグ)のSAGAWA SHIGA FCからは声がかかっていたが、プロの道を最後まで模索。12月のシーズン終盤まで粘った。
色良い返答はなく、村山は肚をくくる。SAGAWAへ。正社員であり、それは同時にプロの夢にけじめをつける意味も含まれていた。
「60歳の定年まで働く。福利厚生のしっかりした環境で、働きながらサッカーをする。もちろんありがたいけれど、小さい頃からの夢はかなえられなくなる――という現実もある。その覚悟を受け入れて入った」
JFLの強豪が急転直下の休部
約束の「緑」に導かれて
ちなみにこの時期に関連して、今回の取材で初めて明かしたエピソードがある。
村山の父親も、息子の進路を案じて全国のサッカークラブの情報を熱心に収集していたという。その中で、父親からとりわけ強く勧められたクラブがある。
いわく、
Jリーグ参入を目指しているらしい。
スタジアムも素晴らしいということだ。
なんとかスポーツプロジェクト?という名前らしい。
「スタジアムがあるし、取り組みもしっかりしている。サポーターも多いらしい。セレクションがあるから、ぜひ受けた方がいい」
聞いたこともないクラブだった。
漢字の読み方も、なんだかまぎらわしい。
父は何度も勧めてきたが、そのたび即座に却下した。
そうしたら翌年、静岡産業大の同級生・多々良敦斗が加入していた。
――松本山雅。ニアミスしていた。
この縁が巡りめぐって、今の村山につながる。
3年目の2012年。夏ごろのある日にサッカー部全員が招集され、役員からSAGAWA SHIGA FCの活動停止を告げられた。
寝耳に水だった。
もちろん雇用契約が解消されるわけではないから、一般社員として残ることは可能。指導者の道を模索する選択肢もあったし、そのまま佐川のドライバーに転身する未来もあった。
「安定もありきで来たら、3年でなくなる。代理人がいるわけでもないし、どうしていいのかわからない。いきなり最大級のピンチが降ってきた感じだった」
社員になる選択肢も頭の片隅に置きつつ、知り合いの伝手をたどる。その中の一人に、多々良がいた。2011年にはアルウィンに乗り込んで戦い、松本山雅のホームゲームがどれだけ盛況かを体感してもいた。もっとも、松田直樹さんが急逝した直後の、きわめて非日常なシチュエーションの試合ではあったけれども。
父親の勧めを遮断した当時とは、松本山雅への認識はもう違う。そもそもサッカーを続けられるのであれば、ましてやJリーグであれば言うことはない。
ちなみに当時の松本山雅でコーチを務めていたのは柴田峡。市立船橋高時代の村山とは、東京ヴェルディユースの監督として何度も対峙していた。
練習参加して内定を得て、プロへの扉が開く。加入1年目、当時の反町康治監督は「アイツはプロ向きだろう。これでよかったんじゃないか」とコメントしていた。瓢箪から駒が出たように、ほとんど諦めていた夢のスタートラインに立ったのだ。
そこから足掛け11年。
松本山雅と苦楽をともにしてきた。
デビューは2013年9月1日のJ2第32節・ガイナーレ鳥取戦。ガチガチに緊張して、なんの変哲もないグラウンダーのクロスをトンネルした。「えっ!?」と思わず自分で声が出て、センターバックの犬飼智也には「ムラさん何してんすか!?」と笑われた。
2013年。FKを大きく蹴り出したら、雨に濡れたピッチで大きく弾んでゴールに吸い込まれた。リーグ公式の選手紹介ページに「Jリーグ初得点」の欄が記載されているGKはそう多くない。
2018年には最終盤で出番が回ってきた。大分トリニータとのJ2優勝争い直接対決に敗れた上、GK守田達弥が肋骨骨折と肺挫傷で離脱。残り3試合。東京ヴェルディ、栃木SC、徳島ヴォルティスと、重圧のかかる試合を全て無失点のクリーンシートとした。
「試合に出られなかったのは難しい時間だったけど、その中でもやらなきゃいけないことはプロである以上はある。そこで変な雰囲気を出してもチームの目標を達成できなければ意味がないから、自分なりに消化してやるべきことをしっかり考えて行動してきた」
当時の取材ノートをひも解くと、そんなコメントを残していた。もちろんプロである以上はまず試合に出たいし、「ベテラン」の一言で片付けてほしくもない。ピッチに立つために最大限の準備はするし、結果的に選ばれなくてもくさりはしない。
ただただ、準備を繰り返す。
この街に満ちていた、緑の躍動を取り戻すために。
「松本山雅の選手で良かったと思う」
それは嘘偽りなき本心だ。今でも試合前のGK練習でピッチレベルに足を踏み入れると、サンプロ アルウィンの威容に武者奮いする。「もう何百回見てきたんだ…という話なんだけど、今見てもたまにちょっと泣きそうになる時がある。『この人たち本当にすごいな』って。このサポーターに応援してもらえるのは幸せだと思う」
幼き日に身を浸したジェフの黄色。
高校、大学、そしてSAGAWAの青。
2色をパレットで混ぜると、生まれるのは緑。村山智彦にとってそれはおそらく、約束された色なのだろう。
PROFILE
村山 智彦(むらやま・ともひこ) 1987年8月22日生まれ、千葉県市原市出身。三井千葉SCでサッカーを始め、中学校時代はジェフユナイテッド市原辰巳台ジュニアユースでプレー。ユース昇格はならず、高校サッカーの強豪・市立船橋高へに進む。3年時の2005年には国体少年男子で優勝し、インターハイ優秀選手にも選ばれた。静岡産業大を経てJFLのSAGAWA SHIGA SCに加入したが、3年目の2012年限りで活動停止。13年に松本山雅FCへ加入した。184cm、78kg。