ラーナー監督に誘われて トライデンツの松尾敬介が担う橋渡しの役割

ドイツで2シーズンを共に戦った指揮官からの誘いだった。SVリーグ男子の信州松本トライデンツに加入したリベロの松尾敬介。20歳で日本を飛び出し、イスラエル、フィンランド、アゼルバイジャン、ドバイと海外リーグを渡り歩いた。5カ国目となったドイツのブンデスリーガ、WWK Volleys Herrsching(ヘルシング)で、今季からトライデンツを率いることになったラーナー監督と出会い、「変わりたい」と思った。その指揮官と共に、今度は日本で新たな挑戦に臨む。

取材:大枝 史

KINGDOM パートナー

ラーナー監督のやり方を熟知
2年間で築いた信頼関係

――まずは移籍の経緯を教えてください。

ドイツに残るかフランスに行くか…という感じでしたが、監督がボブ(ラーナー監督)に決まって、ボブに誘われたことが一番です。

あとは(同じタイミングで加入する)フィリップ(・ジョン)も一緒にやっていたので、それも一つの決め手でした。

――ラーナー監督が決まってから声を掛けられた形ですか?

ボブから「一緒に、どんな形でもいいから」と言われました。僕がもう歳(7月28日の誕生日で30歳)なので、僕の中ではレベルがすごく高い日本でプレーすることは相当な覚悟がいりました。チームの最年長に近いですし、プレーというよりは海外経験を生かせるところがあればと思っています。

――ラーナー監督のやり方を知っていることも大きいと思います。

2年間一緒だったのでやり方は分かっているし、フィリップもいます。ボブのやり方とか意図も分かるので、そこも評価されていると思います。

――新しい外国人監督と日本人選手の橋渡しをする役割が求められている認識でいますか?

ドイツにいた時も、分からないことは聞く姿勢を1年目はずっと指摘されていました。

日本人だと聞きたくても聞けないところがあるので、そこも求められていると思います。自分の良さはポジティブで、「どうにかなる」というところだと思います。チームがネガティブになった時に、みんなにいろいろな考え方や思考を伝える役割も求められていると思います。

姉についていって始めたバレー
JOCカップからリベロに転向

――バレーボールを始めたきっかけを教えてください。

姉がバレーボールをしていたので、それについていってはじめました。

父が野球をやっていたので最初は野球をやっていましたが、その時は全然興味がなくて辞めました。

その次に空手に連れていかれて、その隣で男子バレーボールをやっていて、バレーボールにしました。

――小中学生時代の思い出はありますか?

小学校の指導者が本当に良い指導者で、厳しかったですが今でも連絡を取ってくれるし、気にかけてくれています。その指導者のおかげでスムーズに来ました。三日月クラブ(佐賀県小城市)というクラブで、この前もあいさつに行って一緒に練習してきました。

地元の三日月中学校は佐賀県内では強くて全中(全日本中学校バレーボール選手権大会)にも行ったのですが、僕の1個上の時に行ってもらったという感じで、僕の代は弱かったです。僕の1個上が(SVリーグ男子に新規参入する)フラーゴラッド鹿児島の小森郁己選手で、一緒にやっていました。

――高校は佐賀学園高校に進みました。

中学3年生まではアウトサイドヒッターで、中学2年ではミドルブロッカーもやっていました。

(中学3年生の年末に開催された)JOC(ジュニアオリンピック)カップからリベロに転向して、そこからずっとリベロでした。

高校2年生の時に数カ月だけセッターの挑戦はしましたが、リベロに戻りました。

――ポジション変更に伴う気持ちの変化はいかがでしたか?

1年間だけでしたが、中学2年生の時のミドルブロッカーはつらかったです。身長が低いし、ブロックの仕方も分からなかったです。リベロはずっとレシーブが好きだったので問題なかったです。

高校の監督に「セッターの練習をしてみろ」と言われてセッターをやりましたが、ゲームの組み立て方とか打つ人のポイントとか、相手のブロックやスパイカーを見るのが難しすぎました。僕にはできなかったです。(セッターには)尊敬しかないです。

――進学した東亜大学は中退していますね。

入寮したら厳しい大学でした。自分がいられる場所でもないし、「このままだと4年間もたないな」と思って葛藤していました。親にも相談しつつ、先生には迷惑をかけてしまいましたが、ケガをしてしまったのをきっかけに辞めさせてもらいました。

PROFILE
松尾 敬介(まつお・けいすけ)1996年7月28日生まれ、佐賀県出身。佐賀学園高校から東亜大学に進むも中退。1年間のブランクを経て、2016年につくばユナイテッドSun GAIAに入団。18年に大分三好ヴァイセアドラーへ移籍し、3年間プレーしてからは海を渡る。イスラエル、フィンランド、アゼルバイジャン、アラブ首長国連邦、ドイツと5カ国でプレーし、26年に信州松本トライデンツへ加入。ラーナー監督の下で2年間プレーした経験から、橋渡し役としての期待がかかるリベロ。170cm、68kg。

荷物を全部捨てた日から再起
恩師たちとの出会い

――大学中退後は1年間のブランクを経て「つくばユナイテッドSun GAIA」(V・チャレンジリーグI=国内2部相当)に入団しました。

いろいろなつながりがあって、つくばに練習に行かせてもらって、そこで(クラブ運営法人理事長の)都澤みどりさんと契約させてもらいました。

(つくばで)1年プレーして、(当時V1の)大分三好ヴァイセアドラーの三好博先生とトイレで会った時に、「とりあえず来なさい」と言ってもらいました。

大学も中途半端に辞めているし、つくばも入って1年目でした。都澤さんもすごく僕を大事にしてくれていて、「今後社会に出るならちゃんと我慢することも必要だ」「もう1年頑張ってから行きなさい」と言ってくれたので、もう1年やって、そこから移籍しました。都澤さんは今も連絡取るぐらい良くしてもらっています。

――東亜大学を中退してからもう1回やろうと思った変化はどういったものでしたか?

バレーボールは本当にやりたくなくて、全部荷物も捨てたぐらいでした。

佐賀に帰って治療している時に、トレーニングも入ってマインド的には身体を動かすことにフォーカスできていたし、「バレーボールのためにこの動作はちゃんと治さなきゃ」というのはどこかにあって、「やっぱりバレーボールしたいのかな…」と、その時は思っていました。

しっかり治ってからはバレーボールを見るようになって、同級生は大学でやっていましたし、もう1回やれるならやりたいというのと、できないだろうなというのもありつつ、佐賀で身体作りを始めました。

大学を辞めたことは批判もありました。僕も同級生に「今何しているの?」と聞かれることはすごく苦痛だったので、それなら出ようと思って東京のいとこの家に住まわせてもらいました。そこで東京の大学で友達がたまたま誘ってくれて、毎週バレーボールをやっていました。

――東京でやり始めた頃はバレーボールを楽しめましたか?

初めて好きなようにバレーボールをしたので、すごく楽しかったのを覚えています。

――大分三好で3年プレーしてから海を渡りました。

大分の時は三好先生にすごく良くしてもらっていました。海外に興味はなかったのですが、三好先生が海外にとても興味があって、ずっと「海外を見た方がいい」「いろいろな文化やカルチャーを見て自分の人生を広めなさい」と言われていました。

最初は言われても分かりませんでしたが、調べてみるうちに面白いと思うようになっていました。

それから「外国人のお世話係をどうですか」と言われて、「是非」と応えて英語を勉強して、ブライアン(・バグナス)選手やマーク(・エスペホ)選手をお世話していました。考え方とかリセットの仕方とかが面白いと思うようになってきていました。

――お世話係というのはどういったことをやっていましたか?

3年間、ドライブしたり食事を一緒に行ったり、分からないことがあれば一緒に買い出しに行ったりしていました。

外国人を迎えにいって一緒に練習に行って、一緒に帰っていました。

――三好博先生との思い出話はありますか?

本当に良くしてもらっていました。三好先生はすごく面白い考え方をする方でした。僕も結構変わり者なので、いろいろ相談にも乗ってもらいましたし、夜に一緒にドライブに行って「海外に行きたい」と言ったらタイに連れていってくれたこともありました。

太陽が出ないフィンランド
涙が出た日々を乗り越えて

――海外でのバレーボールは2021年にイスラエルから始まりました。

元々フランスのチームと契約していたのですが、コロナ禍で3回ワクチンを打っていないと入国できなかったので断念するしかありませんでした。

それで東京GBの野瀬将平さんから紹介してもらって行こうと。親も「何でも挑戦しなさい」という感じだったのですぐに決まりました。

僕もイスラエルに行きたいと思っていて、それを三好先生に相談した時に「とても良いじゃないですか」と言われました。クリスチャンとイスラム教、ユダヤ教が混ざった国なので、僕も行ってみたいと思っていました。みんな「大丈夫なの?」という反応でしたが、すごく面白かったです。

――フィンランド、アゼルバイジャン、アラブ首長国連邦を経てドイツに渡りました。

イスラエルでのバレーボールは本当に自由にやっていました。最初はストレスが多くて、途中で帰ろうかな…と思っていましたが、現地にいる日本の人たちに助けてもらいました。毎回応援に来てくれて、食事会も呼んでもらっていましたし、一緒にキャンプ行くこともありました。すごく良くしてくれたおかげですごく楽しくて、国が好きになりました。

フィンランドはつらかったです。人間関係もですが、太陽が出なかったです。「大丈夫だろう」と思って行きましたが大丈夫ではなかったです。キャンドルを見ながら自然と涙が出てくることもありました。遠征に行く時に飛行機の窓から太陽光を浴びるとか、セルビアやルーマニアに行った時も全裸になって(太陽を)浴びていましたね。

シーズンもケガ人は多くて、負けるし、ロッカールームでは叫ぶし、物は飛んでいるし。誰とも話したくなくて練習が終わったら自分の家で引きこもっていました。クリスマスブレイクは1週間ちょっとありましたが、すぐスペイン行きの飛行機を取って、1週間ずっと海で太陽を浴びていました。

アゼルバイジャンは契約が良くて、有名な選手も多く来る中で良いチャンスだと思って契約しましたが、給料が払われなくてチームが解散になりました。

三好先生は「ずっと帰ってくる場所があるから」と言ってくれていましたが、そこに頼りたくなくて僕はイスラエルに行きました。そこで女子のコーチをさせてもらっていたので、3月までは女子のコーチをしながら、ドイツのチームと契約しました。その日に三好先生に電話をしたのですが、その時は出なかったんです。「まだ朝が早いから」と思って時間を置いて電話しても出なくて、あとで三好の方から電話をもらって、先生が亡くなられたのを聞きました。先生はずっと「ドイツが良い」と言っていたので、僕はすごく喜ぶだろうなと期待して電話をしたのですが、契約する前日に言っておけば良かったとすごく後悔しました。夜が遅かったので電話を辞めたのですが、その時に電話していれば…。

――ドイツに渡ってからはいかがでしたか?

最初は監督がいなかったのでオーナーが練習に付き添ってくれていましたが、毎日不安でした。

5月に合流して最初はチームミーティングが始まって、「チームプランはこうしていきたい」とか、みんな意見を出し合っていました。ボブは「勝つ時はみんな一緒だし、負ける時もみんな一緒だからみんなで作らなければいけないよ」という言葉が僕の中ですごく重い言葉に感じて、「やらなきゃ」と感じました。

ポジション毎に役割を与えられて、毎日バレーボール以外の時でも「こうしなければいけない」とか、もやもやしている時もありました。それをボブは感じ取って「言わなければ分からないよ」「発言するようにしなさい」とずっと言われました。

そこからは常に考えるようになりました。分からなかったら「分からない」と言わなければいけないし、「全然恥ずかしいことじゃないから。言わないとこっちも分からない」とずっと言われていました。

そこを直すのが大変というよりも、(自分が)変わりたいと思いました。「このチームで勝ちたい」と思って、やることを考えるのも動くのも、毎日楽しかったです。

――バレーボールだけではなく私生活も変わりましたか?

例えば急に今日は体育館が使えないとなった時も、みんなでスポンサーのレストランに行って職場体験みたいな感じで「今日は自分たちで料理を作ろう」というプランを組んでくれるような、常にチームと何かするのがありました。それで僕も距離を詰めやすかったです。常に信じられているし、こっちも信じているし。スタッフ陣も選手も全員それがあったのは初めての経験でした。

2シーズン目は選手がガラッと変わってしまって、新しいチームに作り変えるシーズンでした。「これを試そう」とか、うまくいかなかったら「これは俺のせい、忘れて」とか「こうやりたいけどどう思う?」とみんなにちゃんと聞いてくれて、僕たちも納得してみんなでチームを作り上げていきました。

みんながボブに言える環境を
プレー以外で担う役割

――そんなラーナー監督に求められたのは光栄でもありますか?

すごくプレッシャーです。チーム名も監督も変わって、最初の年に来られたことに対してうれしいという感情はなかったです。今シーズンは苦しむ気でいます。苦しむのも分かっていて契約しているし、自分が求められることをやらなければ…という思いです。

――とはいえプレーで見せていきたい気持ちもあるかと思います。

もちろんプレーで見せなければいけないし、バレーボール選手なのでそれはマストですが、自分は今年30歳になるし、チームでは松本さんの次に(年長者)なります。

他の国では監督がコーチを選べて、トレーナーなどスタッフも全員連れてきますが、今回(トライデンツに来るの)はボブだけです。それをうまくチームにしていかなければいけないことはすごく大変だと思います。それは僕も多分フィリップも理解していて、僕がボブの味方ばかりしていても日本人からすれば「なんなんだ」と絶対に思うし、そこをうまくしていかなければいけないのはあります。

みんながボブに言える環境を作っていくこともサポートできたら良いと思っています。英語で言うのと日本語で言うのでは受け取り方も全然違うのでそこが難しいし、日本人は言われることがあまりないのでどうなるんだろう…という不安は少しあります。そこをうまく修正していければいいと思っています。

――いろいろなことにチャレンジされてきたと思います。

「とりあえずやってみよう」ですが、ここを選ぶのは相当時間がかかりました。マネージャーにも相談したしボブにも友達にも相談して、すごく悩みました。日本の高いレベルに来るのは不安でしかないです。

(藤原)奨太がいるから心強いのはありますし、小川(貴史ゼネラルマネージャー)さんも居てくれます。小川さんにも直接言える仲なので安心できるというか、そこがなかったら絶対に来られていないです。

――プレー面だけではなく外国籍選手とのコミュニケーション面でも期待されていると思います。

それはボブとも話しました。僕もボブに「助けて」と言えるし、ボブも僕に「助けて」と直接言える仲です。そこは言われたらやるし、僕も気付いたらやります。日本人選手が「これが嫌だ」とか、「これが不満に思う」というところも直接話せる場所を作るというか、できるところも見せたいし、そこでうまくコミュニケーションを取っていきたいです。


クラブ公式サイト
https://vcnagano.jp/
SVリーグ チーム紹介ページ
https://www.svleague.jp/ja/sv_men/team/detail/461

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