選手ストーリー

信州ブリリアントアリーズ

横田 実穂

物心ついた時から、バレーボールが身近にあった。姉の背中を追って力をつけてきた。「バレーのまち」岡谷から大分の地に飛び、全国的な強豪・東九州龍谷高でプレー。現在は故郷の長野県に戻り、信州ブリリアントアリーズでキャプテンを務める。情熱のセッター、横田実穂の物語をたどる。

文:原田 寛子/編集:大枝 令

動き出した運命の歯車
親元を離れて“東龍”へ

一人の男性が、横田をたずねて岡谷東部中に訪れた。

相原昇。大分・東九州龍谷高の監督だ。その年に前人未到の春高5連覇を成し遂げた、高校女子バレーボール界の名将から直々のスカウト。「テレビで見ていた人が目の前にいる」。不思議な感覚だったが、“日本一”への道筋は15歳の視界にくっきりと映っていた。進路はその時点で、一も二もなく決まった。

「レベルの高いバレーボールがしたい」

根底には、常に飢えがあった。バレーを始めたのは生まれ育った岡谷市内のクラブチームだったが、ほどなく隣町の強豪・辰野クラブに移ってプレー。岡谷東部中も、長野県内きっての実績を持つ上沼隆光監督が赴任したからこそ進んだ。

道標となっていたのは、東海大三(現・東海大諏訪)高で全国舞台を踏んだ5歳上の姉。春高などで活躍した左利きのオポジットで、在籍当時は小平花織(元東レアローズ)、家高七央子(元NECレッドロケッツ)、小口樹葉(デンソーエアリービーズ)などを擁する多士済々のチームだった。

「姉の姿もそうだし、その世代の小平選手とかを見ていて、自分も同じように活躍したいと思っていた」

住み慣れた街を出るのに寂しさは特に感じなかった。直線距離で約690km。縁もゆかりもない大分県中津市の新天地に飛び込んだ。全国屈指の名門に入ったとはいえ、自分自身も全日本中学選抜で日の丸を背負った経験がある。それなりの自信は持っていた。

しかしそれは早々に崩される。トップレベルの選手が集まればポジション争いに競り勝つことも容易ではない。入学当初、セッターだけでも6人。極限まで洗練された高速バレー。試合に出られない日々が続く。長野市裾花中から古川学園高(宮城)に進んだ横田真未(刈谷クインシーズ)など、周囲の活躍が眩しく映った。

「自分のプレーも出せないし、成績も伸びない。自分はまだまだだ」――。
負の感情ばかりが押し寄せる。

メンタルのタフネスが問われるトレーニングに向き合うこともあった。実戦形式で、相手チームと強い言葉で煽り合いながらゲームを進める。もちろん学年は関係ない。ぐさりと突き刺さるけれども、自分も煽らなければならない。

それとは対極に、「無言バレー」もあった。本来は喜怒哀楽をストレートに表現するタイプ。しかしセッターという司令塔のポジションだからこそ、自制を求められることもあったという。「熱く、冷静に」。これは現在に至るまで、横田を律する言葉となっている。

いずれにしても、相原監督はオンとオフを明確に分けた。「練習は練習。絶対にコートの外に引きずらないこと」。だからこそわだかまりは生まれず、練習が終われば先輩たちはいつもの通り優しく声をかけてくれた。

競技の面にフォーカスすれば、間違いなく難しい時期だった。1年時のインターハイで全国制覇。しかしそれ以降、目指した日本一には届かなかった。2年の春高ではスタメンをつかんだが、1年生エース宮部藍梨を擁する金蘭会(大阪)に準決勝で敗れてベスト4どまり。主将を務めた3年時はインターハイ、春高とも2回戦で姿を消した。

実際、「バレーだけで言えばスランプのような時期で、焦ってもいた。しんどいことも多かった」と振り返る。それでもこの3年間が脳裏に強く焼き付いている理由は、人間性についてのアプローチが印象的だったからだという。

「毎日が学びだった。相原先生の発する言葉がすごく全部突き刺さっていた。今でも本当に思い出すし、それを書き留めていたバレーノートを今でも見ることがある。『言葉の魔術師』みたいな存在だったので、それがすごく財産になっている」

その中でも、強く印象に残る言葉がある。

「神様は見ている」

練習以外の行動が結局はコート内にも影響する。自らを律しての行動が求められた。バレーボール選手という以前に人間として何が大切かを考え、自分を作り上げていくこと。こうしたさまざまな投げかけが、今の横田実穂を作り上げる重要なワードになっていたという。

実戦のコートは遠い。しかし厳しい練習の日々でも、寮生活は思いのほかポジティブに過ごせていたという。「同じ目標で頑張る仲間と共同生活を送るという楽しさがあった」。基本的には寮と学校の往復のみ。それでも寮生活を思い返した時の第一印象が「楽しく過ごせていた」というのは、「仲間に恵まれたから」に他ならない。

ささやかな楽しみの一つは「おはぎ」だった。基本的に朝食は当番制で作り、昼食はお弁当。夕食は寮母が作る。その中で寮生のテンションが一気にはね上がるのが、夕食におはぎが並ぶ時だ。基本的に甘いものは食べられない中で、夕食のラインナップとしてまれに並ぶ。コンビニにも行けない日々の中で、これがことのほかうれしい。

そんなささやかな楽しみも、おそらく「神様は見ていた」のだろう。

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強みが消えた大学時代
「量」から「質」模索

「練習もつらいことが多いけど、やっぱり励まし合って同じ目標に向かって頑張っている仲間と3年間一緒にいられた。楽しかったと思う」

目に見える結果は得られなかったが、無形の財産を手にして新たな岐路に立つ。大学進学に際し、最初に浮かんだのは姉の存在。大学バレーに詳しくなかったため、東海大に進学していた姉と同じルートを――と漠然と思い描いていた。そのタイミングで、相原監督から筑波大の進路を勧められた。東龍からは初めてのケースだったという。

当時の筑波大は2024年パリ五輪日本代表の井上愛里沙(ヴィクトリーナ姫路)も在籍する強豪チーム。「強いチームでプレーしたい」という気持ちが芯にある横田にとっては申し分ない進学先だ。

「レベルの差がさらに上がったのを感じた」。高校への進学時とは当然年齢も体格も違うため身長もパワーもぐんと上がった。その中で自分自身も「東龍出身」という目で見られている。プレッシャーは感じていた。

日本一を目指すのは高校時代と同じだが「仲間とともに頑張る」というよりも、大学生らしく自主自立が求められる環境。チームを率いる中西康己監督は自分自身が自主的に目標設定する手法を大事にしていた。

価値観の違いに戸惑う。「入部当初は深く考えることができず、大きなギャップを感じた」。さらに、周囲のレベルもさらに上がった。これまではセッターとしては高身長の部類だったが、4年生セッターは170cm超え。アドバンテージはもはやない。トスワークだけでなく、レシーブ能力などにも違いを感じた。

ここに明確な壁が立ち現れた。

そもそも自ら望んだポジションではなかった。小学6年生で160cmとサイズがあり、スパイクを打つのが好きだったという。強烈なスパイクを決めて喜びを爆発させたり、仲間と歓喜を分かち合ったり。だが、まだポジションが定まらない時期、辰野クラブのセッターがいなくなった。

「いずれ身長は伸びなくなるからセッターをやった方がいい」。バレーボールの指導に熱心だった両親からの勧めで始めた。冷静にゲームを判断してトスを回すタイプでもない。それでも全日本中学選抜でセッターに選出され、高校では強烈なアタッカーにトスを上げる楽しさも知った。

「アタッカーとはまた違ったやりがいのあるポジションだと思えた」。そう感じていた時に立ちはだかった壁は大きい。高身長セッターはもう通用しないし、技術レベルも違う。圧倒的な違いを目の当たりにし、過去の自分がやってきたことを全て疑った。トスの上げ方を工夫してみたり、時には先輩を真似してみたり。模索する日々が続いた。

何をやってもうまくいかない。

「自分はどんなセッターだったんだろう」

わからなくなっていた。
ユニフォームは着ていても、試合に出られることはほとんどない。3年生になると後輩が試合に出ることもあった。精神的に厳しい日々が続いていた。

「もっとうまくなりたい」
「もっと強くなりたい」

それでも、心の中からこの思いが消えることはなかった。高い壁を乗り越えるためのアプローチは、誰よりも「量」をこなすこと。ひたむきにボールと向き合う日々。「誰よりもボールを触っていようと思っていた」と、朝練も含めて自主練習を重ねる。折に触れて監督からの技術的なアドバイスをもらいにいく。湧き出る不安や焦りをかき消すように、圧倒的な量の中から自信を少しずつ築き上げていった。

「人にアドバイスを求めることもあったけど、結局は自分の中から答えを出したいという気持ちがあった」。どれだけ練習をしても結果に表れないことも一度や二度ではない。「こんなに練習したのに試合に出られないのか」と嘆くこともあった。それでもコツコツと模索を続けていた。

――そう、「神様は見ている」。

3〜4年時は全日本大学女子選手権(インカレ)で連覇を果たし、主将だった4年時はMVPを受賞した。「試合に出られない苦しみもそうだし、その中での自分の役割は何なのか、チームとして勝つために自分がどうあるべきか。自分だけじゃなくて、他人に与える影響をすごく考えるようになった」。周囲に対してどんな価値を生み出せるのか。その観点が芽生えた。

大卒でアリーズに入団
コート内外で熱源となる

4年時も、コンスタントに出場機会を得ていたわけではない。それでも何かしらバレーに携わりたいと考えており、一般的な就職活動は一切していなかった。そんな折、故郷・長野県の新興チームから監督とコーチが練習視察に訪れた。ルートインホテルズブリリアントアリーズだ。創部2年目でV2の8チーム中4位。将来性も感じられた。

「いずれはトップレベルでプレーしたいと思っていた。地元にチームがあるなら、一緒に引き上げて昇格する力になりたいと思った」

ここで、大学までの学生時代とは決定的な違いがあった。「何のためにプレーするのか」という動機付けだ。

今までは自分の目標のために、自分で選んでバレーに打ち込んできた。しかし現在、自分のプレーがコート内外に影響を与え、それが勝敗に関与し、応援してくれる人々の幸せを生み出す立場に変わった。

応援に来る社員、会場に足を運んでくれるファン。女子バレーボール部を運営する会社。「この人たちのためにもチームの活躍を見せて、もっともっと知ってもらいたい」という思いが芽生えていた。

©️信州ブリリアントアリーズ

入部直後はコロナ禍での参戦。チーム内に感染者はいなくとも緊急事態宣言の発令や離脱チームが増えたことなどから勝利していた試合が無効になるなど、チーム自体が不利な状況で戦う場面もあった。入替戦でV1リーグのトヨタ車体にストレート負けを喫したが、自分たちの武器を再確認するチャンスを得た。

2021-22シーズンはチーム体制が不安定な中でもV2リーグで優勝を果たした。この年の入替戦は、今までの中でも印象深いゲームだったという。

KUROBEアクアフェアリーズとの試合で、初日は1-3と黒星。2試合の勝利数と合計セット数から、この時点でV1への昇格は断たれていた。「格上に挑戦する試合は全て記憶にあるけれど、中でも手ごたえを得られた試合だった」と横田が振り返るのが2日目だ。

初日の敗北の悔しさを持ったうえで、選手たちはチームとしての覚悟を示した。2セットを取られてから3セット連取。逆転勝利をつかみ取った。「攻守ともに力を入れて練習してきたことがしっかり試合に出せたという実感があった。自分たちもV1に挑戦できるという手ごたえを感じられた」と力を込める。最高峰への視界が、少し開けた。

父は高校女子バレーの外部コーチで、母親も高校までバレーボール部で姉も全国舞台を踏んだ選手。まさに「バレー一家」で育った。教えは厳しかったという。長野県自体がバレーボールの盛んな地域でもあり、特に故郷の岡谷市は男子の古豪・岡谷工高の存在が大きく「バレーボールのまち」という看板を誇る。

そうした環境で、物心ついた時から当たり前のようにバレーボールに打ち込んできた。レベルの高い環境を求め、心身ともに苦境の中から模索を止めずに歩んだ。小学校から大学まで、そして現在も主将を務め、コートの中で熱源となってきた。

強いから、勝てるから、楽しい――というだけではない。

今はバレーボールを通じて、生まれ育った長野県にさらなる熱を生み出そうとしている。それは自分自身にとっても大きなプロジェクトだ。

「やっぱり長野県はバレーボールが盛んだという印象があったと思う。またそう言ってもらえるようなきっかけにアリーズがなればいい。地元でも認知され出してはきているけれど、もっともっと応援してもらいたいしもっと地元に密着したい。長野県出身の選手は私と同じように、このチームで地元に恩返ししたいと思っている人もいると思う。そういう選手が帰って来られるような、魅力のあるチームにしたい」

そのためには最高峰のリーグでプレーすることが求められる。改編で新たにスタートするSVリーグは成績面だけでは参入できないものの、可能性が閉ざされているわけでもない。

「いずれはSVリーグで成績を残せるくらいになれば、長野県の中でもバレーボールの認知度が高まるし、人気も出ると思う。そうして実力とともに応援してもらえるチームになることが一番の理想で、そうなるように思い描いている」

幼少期は熱血のアタッカーだった。今は冷静さも兼ね備え、それでも最後はチームを熱く鼓舞する司令塔。自覚的に振る舞うこともできてきた。「男子の試合を見ていると、ただ熱いだけじゃない。石川祐希選手とかは、チームの勢いが足りない時に自分でスイッチを入れて引き上げることができる」。全ては勝利からの逆算だ。

戦う理由も、いつの間にか増えてきた。

自分のためだけでなく、周囲のために、地域のために、長野県のために。そして将来を担う後輩たちのために――。

そうした日々の奮闘も、「神様は見ている」のだろう。

©️信州ブリリアントアリーズ

PROFILE
横田 実穂(よこた・みほ) 1997年5月15日生まれ、長野県岡谷市出身。地元クラブでバレーボールを始め、ほどなく隣町の辰野クラブへ。岡谷東部中時代は全国中学大会に出場したほか、JOC都道府県対抗大会、全日本中学選抜にも選ばれた。高校は全国的な名門・東九州龍谷(大分)へ。相原昇監督に薫陶を受けた。その後筑波大を経てルートインホテルズブリリアントアリーズ(当時)に入団。セッターとして冷静にタクトを振るいつつ、気持ちを全面に押し出しながらキャプテンとしてチームを牽引する。169cm。

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