中村亮太×中村恵実(前編)「篠ノ井の兄妹アスリート 互いにリスペクトして」

世間にはあまり知られていない事実がある。ボアルース長野の中村亮太とAC長野パルセイロ・レディースの中村恵実は、3歳離れた兄妹だ。地元・長野市篠ノ井の実家で暮らしながら支え合い、日々それぞれのフィールドで汗を流している。互いにどんな影響を与え合っているのか、そして何を目指すのか。アスリート兄妹の対談に耳を傾ける。

取材・構成:田中 紘夢

パイオニアの長男を追った10代
ともに県内トップレベルでプレー

――まずは中村家のきょうだい構成を教えてください。

亮太 4人きょうだいです。一番上に姉がいて、兄、自分、妹(恵実)の順です。兄は自分の3つ上で、篠ノ井ジュニアサッカークラブでサッカーを始めて、途中からNPIC HERENCIA FCに移りました。その影響で自分と妹もNPICに入って、そこから競技を続けていったイメージです。

――恵実選手の経歴を見ると、FC REGINAというクラブチームからスタートしています。

恵実 近所に「吉岡塾」というサッカー塾があって、兄たちも一緒に入っていました。そこからコーチの繋がりでNPICだったり千曲FCに参加させてもらって、男の子に混ざって練習していました。

その中で吉岡塾のコーチが女子チームを作ってくれて、北信地方の女の子たちを集めて、FC REGINAというチームができたんです。小学生のときはFC REGINAとNPICの両方でプレーしていました。

――ちなみに一番上のお姉さんは、何か競技をされていたのでしょうか?

恵実 サッカーはやっていないですけど、バレーボールとかはやっていましたね。

亮太 母もバレーボールをやっていて、スピードスケートもかじったりしていたと聞いたことがあります。父も山岳部に入ってはいましたけど、2人とも競技スポーツには馴染みがなかったみたいです。

母は体がしっかりしていて、父も器用なところがあります。自分を器用だとは思わないですけど、何かしらのDNAを継いでいるのかもしれないですね(笑)。

PROFILE
中村 亮太(なかむら・りょうた) 1997年11月21日生まれ、長野市出身。篠ノ井西中時代は松本市のASA FUTUROでプレー。高校は実家から松本蟻ヶ崎高に通い、松本山雅FC U-18で岸野靖之監督(当時)に師事した。信州大教育学部4年の時、ボアルース長野のセレクションを受けてヴェルメリオ(セカンドチーム)入りし、フットサルに転向。4人きょうだいの3番目で次男。最前線でのボールキープと高い決定力が持ち味のピヴォ。173cm、70kg。

――恵実選手は中学からAC長野パルセイロ・シュヴェスター、亮太選手は高校から松本山雅FC U-18と、県内トップクラブの育成組織に進みました。

亮太 自分は中学から松本市のFC ASA FUTUROに入って、高校でも同じ地域の山雅を選びました。長野市を離れる形にはなりましたけど、それには兄の影響もあります。

兄はパルセイロのジュニアユースから長野日大高校に進んで、選手権でも県大会の決勝まで行きました。僕はそれを追いかけるような形でしたけど、兄がプレーしている環境も見てきた中で、当時は「長野市でプロになるのは難しい」と考えていました。

PROFILE
中村 恵実(なかむら・めぐみ) 2000年8月24日生まれ、長野市出身。4人きょうだいの末っ子。FC REGINAからAC長野パルセイロ・レディースのトップチームとシュヴェスター(育成組織)でプレーした。高校は常盤木学園(宮城)に進学し、3年時は全国高校女子サッカー選手権で準優勝。卒業後はAC長野パルセイロ・レディースに加入し、U-19、U-20日本代表候補にも選出された。長身を生かしたパワフルなドリブルと、裏への抜け出しが得意なストライカー。168cm、59kg。

とはいえ家族の事情で県外に出るのも難しかったので、松本でプロを目指すことにして、山雅のユースに入ってトップチーム昇格を狙っていました。

恵実 私からすれば、兄たちは「長野県の代表」みたいな選手でした。それを見ていたので、自分もより高いレベルでプレーしたいと思って、当時チャレンジリーグ(国内3部相当)にいたパルセイロ・レディースに興味を持ったんです。

そのときはまだシュヴェスター(育成組織)がなかったんですけど、大人に交ざって高いレベルでプレーできるかもしれない――ということで、NPICの監督がクラブに連絡をしてくれました。

その年(2013年)は(元日本代表の)本田美登里監督が就任して、横山久美さんも入ってきたので、恵まれた環境でした。新しくシュヴェスターも作られた中で、シュヴェスターとトップチームで並行してプレーさせてもらいました。

ただ、中学生が大人に交ざってサッカーをするわけなので、レベルの差をすごく感じました。まずは同じ年代の中で揉まれたいと思って、高校に進学するときは両親に「県外に行きたい」と話をしました。先ほど兄が話していたように、家庭的に県外に出るのは難しかったですけど、本田監督の説得もあって常盤木学園高校(宮城)に入ることができました。

©2008 PARCEIRO

――お二人の話を聞いていると、キャリアを歩む上でお兄さんの存在が大きかったように感じられます。

亮太 けっこう意識はしていましたね。兄は「太郎」という名前なんですけど、長野市内では有名な選手だったので、自分も「太郎の弟」という見方をされていました。そこで「亮太と言われたい」と思ってやってきたところもあったし、兄には負けたくない思いがありました。

あとは先を行く兄の背中を参考にしながら、「どうすればプロになれるか」を思い描いていた部分もありました。高校に行くときは進路相談もしましたし、良くも悪くも兄への意識は強かったです。

恵実 私も2人の兄のプレーを見てきて、その影響は大きかったです。ただ、男子と女子では違うところもあるので、亮太ほどはきょうだいの影響はなかったかもしれないです。母だったり監督と相談したりしながら、進路を決めているところはありました。

――現在はFW(フットサルではピヴォ)でプレーされているお二人ですが、昔からずっとそのポジションだったのでしょうか?

亮太 自分はいろんなポジションをやっていました。センターバック、ボランチ、サイドハーフ、FW…。一番長かったのはボランチですね。

ボアルースに入ったときも「フィクソ(サッカーではDF)をやりたい」と言ってやり始めましたけど、それでは試合に出られなくて。2シーズン目の最初もそうでした。そこから監督とか選手の意見を聞きながら、ピヴォも面白いかなと思って、いまはピヴォをやっています。

恵実 私は基本的にFWで、あとはサイドハーフをやったりしていました。

――恵実さんは高卒でAC長野パルセイロ・レディースに加入しましたが、亮太さんは信州大を経由してボアルース長野に加入。サッカーからフットサルに転向する形となりました。

亮太 山雅U-18では岸野さん(岸野靖之監督/現松本山雅FCユースアカデミーアドバイザー)のおかげもあって、いろんな経験をさせてもらいました。高校1年からトップチームの練習に参加して、ベンチ外の選手と一緒にトレーニングをする機会が多かったんですけど、それでも自分を出しきれなかったところはあります。

その中で将来はどうするのか――。考えていくうちに、当時(2013年)はまだJ3がなくてJ2までだったんですが、それでも「J2でも試合に出るのは難しいんじゃないか」、あるいは「プロに入って苦しい生活を送るのであれば、大学で勉強して違う道を歩んだほうがいいんじゃないか」と。それで高校卒業と同時にプロを目指すのは辞めて、信州大に入学しました。

教育学部に入って、体育教師の免許だったり、サッカーの指導者資格を取ったり。それでも自分でプレーをするのが好きだったので、サッカー部には入って北信越大学リーグで戦っていました。

指導者資格を取りに行っているとき出会ったのが、ボアルースの春原さん(春原史明/現U-15監督)でした。当時は就職活動が終わって、「社会人になってもスポーツがやりたい」と思っていたタイミングなんですけど、そこで「フットサルをやってみないか」と声をかけてもらいました。

自分の中では「みんなで楽しくサッカーをやれれば」とも思っていたんですけど、それ以上に「うまくなって試合に勝つ」という楽しさのほうが合っていました。より上を目指せる環境でやりたかったので、ボアルースのセレクションを受けたところ、セカンドチームに合格することができました。

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「年齢は関係なく、成長できる」
アスリートとして刺激し合う

――その後はすぐトップチームに昇格する形となりましたが、先ほど話していたようなポジションの模索もあれば、試合で活躍しきれない時期も長くありました。それは恵実さんも同じで、右膝の負傷が相次いで3度の手術を行い、いまも完全復活を目指している最中です。競技は違えど、兄妹そろって苦悩を重ねてきた中で、互いにどのように支え合ってきたのでしょうか?

恵実 正直、兄が「サッカーで挫折してプロを諦めた」というのは、最近知った話なんです。まずはそれにビックリしました。でも大学で競技を辞めて一般的な社会人として生活を送るのかと思ったら、ボアルースに入ることが決まって。戦いの世界から抜け出せない兄を見ていたら、「やっぱりボールを蹴るのが好きなんだな」と思いました。

私がフットサルを初めて見たのは、兄がボアルースに入ってからです。そのときは「サッカーと同じようなものかな」と思っていましたけど、全く違う競技だったのでびっくりしました。兄のプレーを1年目から見てきて、最初は全然できていなかったですけど(笑)、いまは本当に中心選手になっていますよね。

プロの厳しい世界の中で、一からフットサルを学んできた姿を見て、私も学んだことがありました。「誰でも年齢は関係なく、努力すれば成長できる」ということです。私もそのときはケガが続いていましたけど、「やった分だけ成果は出る」と思えるようになって、すごく勇気をもらいました。

©2008 PARCEIRO

亮太 実は妹が最初にケガをしたタイミングで、自分も靭帯を切っていたんです。その後も妹は2回再発したので、自分も経験していたからこそ、リハビリの苦しさというのは感じられました。膝のケガは選手生命に関わるもの。いまでも違和感を覚えるときはあるので、妹はもっとそういう経験をしているんだと思います。

妹が復帰してもまたケガをしていくのを見ていた中で、「本当に苦しいだろうな…」と感じていました。正直、かける言葉も出てこなかったし、調子の良いときのパフォーマンスを思い返すと悔しさもありました。

それこそ3回目のときには本人が「辞めたい」と言っていたんですが、自分からしたら「そうだろうな」と。そこで「続けなよ」とも言えないし、「辞めればいいんじゃない?」と言ってもいいかなと思っていました。

それでも妹は続けることを選んだので、正直「なんでだろう?」と思ったんです。それをふと妹に聞いたときに、「上を目指すというよりも、身近な人のためにプレーしたい」と言っていたのを覚えています。

周りの人を大事にする妹らしい言葉で、素直に「かっこいいな」と思いました。これまで年代別の日本代表も経験してきて、なでしこジャパンを目標にしていた中で、2020年にはチーム内で得点王にもなりました。そうやって上を目指してきた妹から「身近な人のために」という言葉を聞いたときに、選手としての強さを感じました。 そこで一つ皮がむけたというか、これが本当の選手のあり方なんだろうなと。

誰しも上を目指して戦うのは当然ですけど、そういう姿を見せると応援してくれる人がいる。自分も妹を本当に応援したいと思いました。その姿勢を自分も学んで、応援されるような選手になりたいと思います。

後編はこちら

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