ボアルース長野
丸山 裕輝
信州フットボール界には3つのプロクラブがある。サッカーの松本山雅FCとAC長野パルセイロ、そしてフットサルのボアルース長野だ。緑、橙、そして赤。選手として異なる3色のクラブ全てに身を染めたのは丸山裕輝が唯一。たどり着いた先のボアルース長野で、赤き血潮をたぎらせながら日々を送っている。
文:田中 紘夢/編集:大枝 令
育成年代の時に“禁断の移籍”
周囲からは冷ややかな視線も
丸山裕輝、長野市出身。
学生時代はAC長野パルセイロU-15、松本山雅FC U-18と県内トップクラブのアカデミーを渡り歩いた。その後は城西大を経て、フットサルに転向。地元クラブであるボアルース長野に入団し、4シーズン目を迎えている。
生まれたのは1998年5月。
長野五輪の余韻が少しずつほどけていく、若葉の頃だった。
3歳上の兄・将輝の後を追ってサッカーを始め、同じFCフェローズに入団。地元の小さな少年団ではあったが、当初から自身に才能を感じていたという。2年時から4年生チームに飛び級で参加し、その後は県トレセンにも選出。いわゆる「10番タイプ」の王様で、毎試合のように得点を量産していた。
守備をしなければ、走ることもしない。自分に甘く、他人には厳しい。いわば“お山の大将”だ。それでもボールを持てば輝きを放ち、チームを勝利に導く。いくらサボろうとも、誰にも文句は言われなかった。「今思うと本当に恥ずかしいし、振り返りたくない」と本人は笑う。
高いレベルを目指すのは必然だった。6年時には川崎フロンターレの門を叩いたが、2次選考で落選。地元に選択肢を切り替え、AC長野パルセイロのセレクションに合格する。当時のAC長野はトップチームがJFL(日本フットボールリーグ)に所属しており、Jリーグ参入に向けてアカデミー強化に取り組んでいた。2013年には日本クラブユース選手権U-15で全国大会初出場。丸山も歴史の扉を開く一員となった。
グループリーグは3戦全敗。横浜F・マリノス、ジュビロ磐田と同組なる中で1点も奪えず、計12失点と歯が立たなかった。丸山にとっても初めての全国舞台。「大会期間中にスタメンを外されることもあって、かなりショックを受けた。今思い出しても、自分のキャリアでトップに入るくらい悔しい大会だった」。
中学では“王冠”も外れた。
1歳下の年代はMF新井光(FC今治)、MF山中麗央(AC長野パルセイロ)と実力者ぞろい。とりわけ新井は飛び抜けた存在で、実力的にかなわなかった。試合にはコンスタントに出場して「県内敵なし」だったものの、3年間を通して伸び悩みを感じる。周囲に差を縮められていることも痛感していた。
再び突き放すために、どのルートをたどるべきか。3年時にはAC長野のユースチームが設立されたが、「1期生となると『なかなか難しいのかな』と思うところもあった」。あえて昇格の道を選ばず、同じ県内の松本山雅FC U-18へ。ライバルチームに“禁断の移籍”を果たすこととなる。
その背景には恩師の存在があった。
当時、山雅U-18を率いていた臼井弘貴監督(現ブラウブリッツ秋田コーチ)だ。小学校時代は県トレセンで指導を受け、中学でもコーチとして教わった間柄。高校の進路を悩んでいる際に連絡したところ、山雅への誘いを受けた。
オレンジから緑へ――。
15歳の丸山からすれば単に、高みを目指して環境を変えただけの話だ。しかし、周囲の見方は異なる。両者は信州ダービーを戦うライバルで、相容れない関係。本気か冗談かはさておき「山雅に行くんだ」「禁断の移籍だね」など言われ、冷ややかな目を感じていたという。もっとも、それが選択に影響を及ぼすことはなかった。
高校では寮生活を送る選択肢もあったが、長野市から通うことを選んだ。進学先の松商学園まで電車通学。放課後にユースの練習に参加し、そこから帰路に着く。毎日のルーティンをこなすだけでもハードだが、それに加えて練習もハードだった。
当時の岸野靖之監督(現アカデミーダイレクター)のもと、ただひたすら走り、走り、走り抜く。まるで部活動のようなメニューで、とりわけオフ明けは憂鬱だったという。
だが、その日々が成長に繋がった。小学校では走らない王様タイプだったし、中学でも走り込みでは最下位を争うほど。それでも高校で体力がつき、のちに大学でも運動量を売りとする選手になった。
「当時は本当にしんどかったし、逃げ出したかったけど、あれだけ走っておいてよかった」
フィジカル的にもメンタル的にも鍛えられた3年間。3年時にはJリーグのユースチームが集う「Jユースカップ」で、クラブ初のベスト4入りを遂げる。アルビレックス新潟U-18、横浜F・マリノスユース、ヴィッセル神戸U-18と並みいる強豪を連破して歴史を刻んだ。
中学時代は歯が立たなかった全国のレベルにも、気づけば手が届くようになった。
一方、実力的には「全然スーパーではなかった」。同期を見れば小松蓮、杉山俊、賜正憲の3選手がトップチームに2種登録され、このうち小松は大学を経由してトップチーム入り。2023年にはJ3得点王に輝き、恩師・臼井コーチの在籍するブラウブリッツ秋田に移籍した。しかし丸山自身はプロ入りには程遠く、強豪大学のセレクションにも受からなかった。
大学サッカーで挫折するものの
兄・将輝を追うようにフットサルへ
中高と県内のトップチームを渡り歩いた中で、実力不足を痛感した丸山。それでもプロへの道を諦めることなく、下から這い上がる覚悟でいた。進学先に選んだのは、埼玉県にある城西大。高校の担任に勧められ、指定校推薦で入学できる大学を選んだ。
「正直、名前すら聞いたことはなかった」
それでもサッカー部のホームページを見れば、埼玉県大学リーグで3連覇を果たした実績がある。「この大学に行けば、在学中には関東大学リーグに行って、そこからプロに行けるんじゃないか」。青写真は描けた。
だが結果からすれば、在学中に関東大学リーグへの昇格はかなわなかった。それどころか、4年になるまでトップチームに入ることすらできなかった。
チームは100人を超える部員が5カテゴリーに振り分けられ、丸山は最下層からのスタート。「やっていれば上がれるだろう」と楽観視しながら練習に励んだものの、なかなか上がらない。2年時には居残り練習で右膝を負傷し、骨挫傷の診断。半年以上の離脱を経て、3年の夏にようやく復帰を遂げる。
「当時はピッチ上では全力でやっていたけど、ピッチ外では睡眠とか食事にもこだわっていなかった」。居残り練習での負傷は、シュートを空振りしたことが原因。それも疲労の蓄積によるものだったのかもしれない。
その経験もあって、リハビリ期間は行動が変わった。
ピッチ上でプレーができない分、ピッチ外で成長しなければ差は開く一方だ。まずは生活を見つめ直し、今までおろそかにしてきた食事や睡眠にこだわる。海外サッカーを見て勉強する機会も増やした。想定よりもスムーズに復帰できたことも、日頃の行いによるものだと感じられた。
「復帰後は自分が思った以上に体が動くし、頭の中でもプレーのイメージが沸いてきた。当時の監督からも評価が高くて、『やっと本領を発揮してきたな』と言ってもらえた。ケガをしたことが良かったのかは分からないけど、周りから見ても状態は良かったと思う」
城西大ではボランチとしてプレー。高校でも経験はあったが、当時は「守備ができない」と言われていた。それから大学ではボール奪取の感覚を養った上、山雅で培った走力も生かし、守備能力の高いボランチとなった。
練習試合で山雅ユースの臼井監督と再会した際には、「高校の時から守備ができていたら、使っていたのに――」と言われたという。それに早い段階で気付けていれば、今頃はプロサッカー選手としてキャリアを歩んでいたのかもしれない。
しかし、結果として歩んだのはプロフットサル選手としてのキャリアだった。4年になってようやく主力の座を確保。JFLや関東リーグを経由してのプロ入りを目指していたが、なぜ競技を転向するまでに至ったのか。その理由は2つある。
一つは4年時の練習試合だ。大学サッカーのトップを争う明治大と戦って実力差を痛感。相手はいわゆる1.5軍だったが、自分たちの1軍で挑んでも歯が立たなかった。「トップレベルと戦って衝撃を受けたし、めちゃくちゃ心が折れた。正直、プロサッカー選手になるのはきついのかなと思った」。
そしてもう一つは、4年に上がる際に新設されたフットサル部門だ。希望者はサッカーと並行して週2回の練習に参加し、関東大学リーグにも出場できる。丸山としては当時、兄の将輝がボアルース長野でプレーしていたことから、フットサルにも関心はあった。実際に週2回の練習に参加する中でも、面白みを感じていたという。サッカーの道を諦めかけた中でも、フットサルという選択肢が浮上した。
「明治との練習試合が終わった頃には、『俺はもうフットサルだ』と思っていた」。兄がすでにフットサルの道を歩んでいたことも含め、すべては巡り合わせ。心機一転、日本最高峰のFリーグを目指し始めた。
大学4年生の当時は就職活動中。在住している関東と、地元・長野の企業から内定を受けていた。そこからボアルース長野のセレクションに進み、セカンドチームに当たるヴェルメリオへの入団が決定。兄と入れ違いで地元クラブに加わることとなった。
特別指定選手としてトップチームにも帯同。2季目となる2022-23シーズンの途中から正式に昇格を果たしたが、それまでの道のりは順風満帆ではなかった。大学時代も競技を経験していたとはいえ、あくまでフットサル未経験者の集まり。素人に近い状態のままプロの世界に入り、「他の選手からしたら『何しているんだ』というようなプレーもたくさんもあったと思う」。
それでも「できること」にフォーカスしてきた。「切り替えとか球際とか、泥くさいところはユースから厳しく言われてきた。それはボアルースに入ってからも当たり前に大事にしている」。チームのスタイルでもある泥くささを体現しつつ、フットサルの原理原則も徐々に浸透してきた。
昨季は3シーズン目にして、ようやくFリーグ初ゴールを記録。ヴォスクオーレ仙台に所属する兄との対戦も実現し、家族も見守る中で特別な感覚を味わった。
母への恩返しのために
生まれ育った故郷のために
キャリアを歩む上でも、兄・将輝の存在は大きかった。サッカーを始めたきっかけであり、フットサルを始めたきっかけでもある。兄は高校卒業後からフットサルの道を歩み、府中アスレティックFC(現立川・府中アスレティックFC)のセカンドチームからトップチームへ。丸山自身も大学時代には応援に駆けつけ、その活躍ぶりを間近で見てきた。
「兄のフットサルへの取り組み方はすごい。生活からこだわっているし、ストイックな部分をたくさん見てきた。本当に尊敬しているし、僕も兄なしではここまで来ていないと思う」
ストイックさを象徴するエピソードがある。2018年、兄の在籍していた府中がクラウドファンディングを実施。クラブ公式マスコットを作るためのプロジェクトだったが、リターンとして「100年に一度の逸材 丸山将輝選手とマンツーマンで筋トレ」というものが用意された。30,000円と高額ながらも即完売。追加で用意された35,000円のリターンも同様だ。
現在の登録上は175cm、80kg。弟いわく「もともと自分よりも線が細かった」とのことだが、食事や筋トレにこだわり続けた結果、すっかり筋肉のイメージが定着した。2021-22シーズンをもって引退を発表したものの、翌シーズンに電撃復帰。仙台をF1昇格に導き、今季も中心選手としてチームを支えている。
影響を受けたのは兄だけではない。丸山は母子家庭育ち。実家のある長野市から松本市まで通っていた高校時代は、母親の手厚い支援があった。
「僕はただでさえ朝起きるのが早かったのに、母親はそれよりも早く起きていた。朝ご飯とお弁当を作って、駅まで送って。帰りも仕事終わりに駅まで迎えに来て、夜ご飯も用意してくれて。僕よりも寝るのが遅かった」
大学で初めて一人暮らしをした際にも、母親の偉大さを実感した。そこからサッカーの道を諦めながらも、今はフットサルの道に没頭できている。まだまだレギュラー定着には至らないものの、「僕が活躍することで少しでも『報われた』と感じてもらいたいし、そのためにも全力で頑張りたい」。
兄も活躍したクラブで地元出身選手としてプレー。しかもパルセイロと山雅のOBとなれば、経歴だけで目を引くのは当然だ。本人も「ありがたいことに、何もしていなくても注目してもらえる立場」だと認識する。
信州フットボール界にある3つのプロクラブ。そのすべてでプレーした選手は今のところ自身しかいない。地域に根付くフットボール文化について、丸山はこう話す。
「どのチームを見ても、応援してくださっている方との距離が本当に近い。パルセイロにいたときは、サポーターの方々がジュニアユースにも差し入れをしてくれることも頻繁にあった」
「山雅はすごく地元に根づいていて、ウェアを着て街を歩いているだけでも声をかけてもらえたし、学校にいても知らない人から『山雅のユースなんだよね』と言ってもらえた」
「ボアルースもサポーターとの交流の場が本当に多くて、応援されていることを肌で感じられる」
かつての戦友たちも地元を盛り上げている。パルセイロでは山中麗央が10番を背負い、中心選手として活躍。山雅では小松蓮が2023年のJ3得点王に輝き、J2秋田にステップアップした。丸山も競技は違えど、クラブを象徴する存在となるべく、研鑽を積んでいる最中だ。
チームメイトの活躍にも刺激を受ける。山雅U-18の1つ上に当たる先輩で、同じ長野市出身の中村亮太だ。ボアルースに同期入団し、現在は主力として活躍。今季の第5節・エスポラーダ北海道戦では、長野市ホームタウンデーで多くの市民が駆けつける中、終盤に決勝点を挙げてスタンドを沸かせた。
丸山も市民を沸かせたかったが、無念のメンバー外。スタンドで見守りながら、先輩の活躍を素直に喜べない自分がいた。
「高校から一緒にプレーしてきて、一緒にボアルースに入った選手が、自分より先に活躍してあれだけ会場を沸かせている。それを見たら、ただうれしいという感情だけではなかったし、複雑な思いがあった」
山雅U-18出身の中村だけでなく、過去にはパルセイロU-18出身の有江哲平も活躍。彼もまた郷土愛、クラブ愛にあふれた選手で、2021-22シーズンにはキャプテンを務めていた。
それぞれ緑とオレンジの系譜を持ち、ボアルースのために赤き血を燃やしてきた。だが、緑とオレンジの血を引き、そこに赤き血を加えた選手は丸山しかいない。
橙のユニフォームを着て、謙虚さを学んだ。
緑のユニフォームを着て、ひたすら走った。
そして今、
赤のユニフォームを着て、飛躍をうかがう。
長野県のフットボールを血肉に溶かし、故郷のために戦う。それこそが丸山裕輝に課せられた使命であり、地域に善き光をもたらすボアルースの未来でもある。
PROFILE
丸山 裕輝(まるやま・ゆうき) 1998年5月28日生まれ、長野市出身。AC長野パルセイロU-15では日本クラブユース選手権U-15に初出場した。高校時代は松本山雅FC U-18でプレー。3年時はクラブ初となるJユースカップ4強を経験した。城西大を経てフットサルに転向し、ボアルース長野に入団。1対1での駆け引きと、左右両足からのシュートを持ち味とする。ポジションはアラ。170cm、68kg。