浅川隼人×砂森和也(前編)「娘の難病もきっかけに サッカーで地域課題解決へ」

千葉市の同じ町内からJリーグに羽ばたいた2人の選手が今、長野県内の2チームに在籍している。松本山雅FCの浅川隼人と、AC長野パルセイロの砂森和也だ。普段は信州ダービーで敵対する両チームだが、砂森の長女が急性白血病を患った際には松本からも支援が集まった。今季加入した浅川は、砂森の体験談を踏まえてクラブの取り組みに合流。チームの垣根を超えて、2人がいま伝えたいことは――。

取材・構成:大枝 令、田中 紘夢

裏抜けスプリントで15秒の近所
時を超えて公式戦のピッチで再会

――まずは2人の関係性を教えてください。

浅川 和也くんの弟が僕の1個上で、僕と同じチームだったんですよ。僕もよく1個上の学年の試合にも出ていたので、そこから家族ぐるみの付き合いというか。あと和也くんは、同じ町内でサッカーをやっているお兄ちゃん的な存在でした。

5学年離れているので小さい頃から一緒にプレーする機会はなかなかなかったんですけど、お互いに知る存在で、たまに町内でも交流するような。そんなところですかね?和也くん。

砂森 小さい頃からずっと知っているし、本当に実家同士で言うと頑張れば20秒あれば着くよね。回覧板が回ってくる同じ町内。

浅川 めちゃくちゃ近い(笑)。

砂森 大内(一生)からのフィードで裏に抜け出すスプリントの速度で行くと15秒くらいでいける(笑)。地元から町内からプロサッカー選手が2人も出ることなんてほぼないと思うので、「少しでもお互いに頑張っていこうか」みたいな話はずっと話はしているよね。

僕からすれば弟よりさらに年下だから、「弟のサッカー仲間」みたいな感じ。近所ではずっと駐車場でサッカーしていて、「ハングリーなサッカー小僧」というイメージがあるかな。

©2008 PARCEIRO

PROFILE
砂森 和也(すなもり・かずや) 1990年9月2日生まれ、千葉市出身。左利きのサイドバック。ジェフユナイテッド千葉のアカデミーで育ち、U-18からは順天堂大へ。卒業後はJFL(日本フットボールリーグ)の強豪・Honda FCに加入した。2016〜17年はJ2カマタマーレ讃岐でプレーし、アスルクラロ沼津と鹿児島ユナイテッドFCを経て23年にAC長野へ。昨年5月、娘の急性白血病に伴ってチーム活動を中止。看病に専念した。移籍2年目の24年はピッチに復帰。171cm、70kg。

浅川 和也くんが近くなったと感じたのは、ジェフ(千葉)のアカデミーに入った時。僕が中学1年生のときに高校3年生で、ユースのキャプテンをやっていましたよね。同じ町内で1個上の先輩のお兄ちゃんが、同じエンブレムを背負ってキャプテンをやっているわけですよ。「一番近くの憧れの存在」みたいな感じがありました。

――プロでの対戦歴はあるのでしょうか?

砂森 2019年に僕が鹿児島(ユナイテッドに)に行った当時はJ2。2020年は隼人が(ロアッソ)熊本にいて、当時はコロナ禍で鹿児島と熊本がものすごい頻度で練習試合やってたよね?

浅川 めちゃくちゃやってましたね(笑)。

砂森 当時の金鍾成監督と、熊本の大木(武)監督が仲良かったのかもしれないけど、半年で数え切れないくらい練習試合をやった記憶がある(笑)。お互いが手の内を全部知り尽くすみたいな。それでも正々堂々とお互い真っ向勝負でぶつけにいくチームスタイルだったから関係なくて、再開明け一発目も熊本だったよね。

浅川 でも公式戦でちゃんとフルでマッチアップしたのは本当に、こっちに来てからかもしれないですよ。僕はけっこう感慨深かったです。互いの両親もそうだし感慨深さが家族ぐるみであったのかなと。家族内で話題になっていた感じです。

©松本山雅FC

PROFILE
浅川 隼人(あさかわ・はやと) 1995年5月10日生まれ、千葉市出身。相手DFと駆け引きしてのワンタッチシュートを得意とするFW。ジェフユナイテッド千葉の育成組織でプレーし、高校は八千代(千葉)へ。桐蔭横浜大を経てY.S.C.C横浜に加入すると、2年目から主力となってハットトリックを含むシーズン13得点を挙げた。ロアッソ熊本、奈良クラブを経て2024年から松本山雅FCへ。先頭での起用が多く、ゴール前まで運べれば職人芸が光る。178cm、70kg。

――今はチームこそ違いますが、同じ長野県内でプレーしています。

浅川 ご家族のこともありますし、和也くんはもともといろんなことを意識して考えて行動されていた人でもありました。スポーツ界も地域という存在に対しても、すごく同じ目線で話ができる選手だったので、近くにいて本当にありがたいと思っていました。せっかくここに来たんだったら、一緒に大きなくくりで長野県として一緒に何かをできたらいいね――という話はしていました。そういった意味でも同じような目線で話せる選手はなかなかいないので、すごく「いい兄貴分」という感じです。

砂森 隼人は年下だけど考え方がしっかりしているし、家族の病気のことも気にかけてくれていました。発信力もあるから、自分が思っていたこととか、(急性白血病を罹患した長女の看病をしていた)去年の一連の流れを経験した中で、「少し協力してもらいたいな」という気持ちをずっと持っていました。一緒にご飯を食べた時とかに自分の思いを伝えながら今に至ります。

©2008 PARCEIRO

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娘の看病を経て感じた砂森の課題
聞いた浅川が信大との連携に合流

――砂森選手は娘さんの入院中、付き添いの保護者は食事を調達しづらい…という経験をしたと思います。それを聞いた浅川選手は、クラブと信大が協議していた支援に合流し、「保護者に喫茶山雅の弁当を届ける」という松本山雅FCのプロジェクトが始まりました。県内の医療における「最後の砦」でもある信大医学部附属松本病院が松本市にあるので山雅が携わりましたが、長野市にあれば砂森選手がパルセイロで同じ取り組みをしていたのかもしれません。

砂森 隼人いま、信大(医学部附属病院)に行っているんだよね?

浅川 はい、毎月。近くにそういう経験をした選手がいて話を聞いた時、「なかなか簡単に行動に移すこともできないな」と思ったんです。でも、いても立ってもいられないし、「何かできることがあるんじゃないか」と。その意味では、年末に話を聞かせてもらったのが大きな転換点になりました。

©松本山雅FC

砂森 僕自身が経験してきた中で、「やってもらってありがたい」という部分と、いろんなシーンを見すぎて「これは簡単じゃない」ということを感じました。もちろんサッカー界を通じて僕の娘はたくさんの支援を受けて救ってもらって、しかも地元のクラブの選手たちが小児病棟に訪問してくれて元気をもらっています。

僕の娘は完治とかに向けて明るい方向に進んではいますが、同じ病気でもどうすることもできなくて緩和ケアに行ってしまう子どももいるんです。そういう方々に何を支援できるのか、どう勇気づけられるのか――は、自分の中でも見つかりません。

もちろんSNSで発信したりと取り組みはしていますが、彼らが究極的に欲しいものは「まだ生きたい」。その気持ちだけなんです。そういう方々と繋がってきて本当にいろいろと考え込んでいた自分もいます。ようやく消化し切れた部分もあるので、最近は行動に移すことに決めました。

©松本山雅FC

浅川 僕も先日、実際に病院を訪問して触れ合った子が(病状に)浮き沈みがあって、最終的には…という話を聞きました。逆に退院して遠いところからスタジアムに来てくれて、僕が本当にたまたま点を取れたという経験もありました。

一歩ずつ前には進んでいると思いますけど、まだまだ僕たちができることは小さい。それでも課題がずっと解決しないままにするよりは、こういう取り組みをチームの文化にしていくこと、地域の課題の本当に届けたいところにきちんと届けられる仕組みを始められたのは、大きな一歩だったのかなとも思います。

ただ、これはずっと続けなければ意味がないんです。これからも選手としてもチームとしても引き継いでいかないといけないと思います。

©2008 PARCEIRO

思索の深淵から 砂森が導いた解
「自分はどう思うかを、明確に」

砂森 自分も先日、サッカーのイベントを開きました。いろんな背景も含めると、今の世の中は「どう思われるかな」とか「これっていいのかな」とか、正解を求めすぎているような気がしました。それこそ最初に自分たちが直面したものでもあったんですけど、考えすぎて自分もよくわからなくなっちゃう。そこで究極まで行きすぎて何もしないよりは、独立した話でいいんじゃないかと思うようになりました。

例えば娘の病気がきっかけで、隼人が「それは大変だ、じゃあ山雅でもできることがあるんじゃないか」と感じて、馬渡(和彰)くんと一緒に訪問してくれた。それは馬渡くんと浅川隼人という人間が、「自分たちはどうするべきか」というアンサーを明確に持ってくれたから。行動に移せば、こうしてメディアにも取り上げてもらって広まる。そういうことがもっとたくさん出てきてほしいと思います。

©2008 PARCEIRO

ある事象に対して、自分はどう思うのか。そのアンサーを僕自身も持った上で、今回は長野市内でサッカーのイベントを開きました。でもプロサッカー選手じゃなくても、例えば一般の方が「2人組で何かしよう」でもいいんです。そういう意味では、隼人の取り組みは僕がやりたいことの追い風になってくれています。

去年は娘の治療のためにクラブの活動を休止しましたけど、理解してくれたクラブがあったから今の自分があります。今年ピッチに立てるなんて思っていませんでした。

普通ならなかなかないことです。プロの世界は明日どうなるかわからないけれど、選手会が力を出し合って募金をしてくれたし、大々的に全国から35クラブが支援をしてくれました。そのおかげで松本まで1時間の距離の高速代とか食事代とか、入院に関連する諸費用を補えました。

©2008 PARCEIRO

ただ、隼人も病棟に行ったからわかると思うけど、(抗がん剤で)髪の毛が全部抜けてしまっている子もいるわけです。彼らは大々的に支援を受けられるわけではない。その中で、「うちだけが退院できてよかった」という気持ちになんて到底なれません。

だからこそ、今回サッカー界で起きたこのムーブメントに、一般の人も入ってきてほしいと思っています。ライバルチームの山雅のサポーターが僕に対してすごく募金してくれていたし、それでも(信州ダービーで)同じピッチに立てばバチバチの雰囲気になったじゃないですか。それとこれは切り離した中でも手を取り合えるというのは、同じサッカー仲間としてはすごく心強かったです。

経済的な部分だけではなくて精神的な部分でも、人が周りにいてくれるだけですごく安心感があるんです。同じ病棟で苦しんでいる人たちはまだまだいるし、全国から僕のSNSにはメッセージが今でも多く集まります。そういう方々にも何か少しでも、どういう形かはわからないけれど、支援が行き届くようにしていきたい。それがパルセイロであれ山雅であれ、長野から発信できたらと思っています。

©松本山雅FC

浅川 そのためにも、まずは「知ってもらう活動」がすごく必要だと思っています。それにうまくスポーツの発信力や拡散力が使えればいいですよね。それもスポーツの魅力だと思うので、まずは伝えること。こういう課題があって、それに対して何かできないか。アクションしたいけど、やり方がわからない人たちもまだまだいる。協力できる仕組みや枠組みを、できるだけ小さなハードルで提供することが大事だと思っています。

(奈良クラブ時代に始めた)「こども食堂」も今回の信大の活動もそうだけど、ただ「選手が行きました」だけではなくて、きっちり周りを巻き込むこと、そこに対して知ってもらう活動をすること。それがセットになって訪問を続けられると応援の輪も広がるし、手を取り合うことにつながると思います。

後編はこちら

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